「間諜は君にあげる」

 ミュージカル音楽で興味を持った『レ・ミゼラブル』の原作として、たまたま最初に手に取ったのが豊島与志雄訳・岩波文庫だった。そのせいもあってか、他の翻訳と見比べてみても、一番のお気に入り。もっとも現代の感覚だと、たまに吹き出すところもある……。以下はアンジョーラ(アンジョルラス)がヴァルジャンにジャヴェールの身柄を引き渡すシーン。

 そこにジャン・ヴァルジャンが出てきた。
 彼は暴徒らの間に交じっていたが、そこから出てきて、アンジョーラに言った。
 「君は指揮者ですか。」
 「そうだ。」
 「君はさっき私に礼を言いましたね。」
 「共和の名において防塞はふたりの救い主を持っている、マリユス・ポンメルシーと君だ。」
 「私には報酬を求める資格があると思いますか。」
 「確かにある。」
 「ではそれを一つ求めます。」
 「何を?」
 「その男を自分で射殺することです。」
 ジャヴェルは頭を上げ、ジャン・ヴァルジャンの姿を見、目につかぬくらいの身動きをして、そして言った。
 「正当だ。」
 アンジョーラは自分のカラビン銃に弾をこめ始めていた。彼は周囲の者を見回した。
 「異議はないか?」
 それから彼はジャン・ヴァルジャンの方を向いた。
 「間諜は君にあげる。」
 ジャン・ヴァルジャンは実際、テーブルの一端に身を置いてジャヴェルを自分のものにした。彼はピストルをつかんだ。引き金を上げるかすかな音が聞こえた。

ユーゴー、豊島与志雄訳『レ・ミゼラブル(四)』(岩波文庫)

 「君にあげる」「自分のものにした」……物品のごとくやりとりされるジャヴェール。うっかりすると違う意味に聞こえるが。

 なお、集英社「世界文学全集」収録のレ・ミゼラブル(坪井一・宮治弘之訳)では

「その男を自分で射殺することです。」→「この男の腦味噌を私自身で打(ぶ)ちぬきたいんです」
「間諜は君にあげる。」→「密偵を連れて行きなさい」

 ……やけに、過激である。ちなみにこの本は縮訳版で、美味しいところがカットされていることもあるのが残念。

 スパイ・ジャヴェールが捕まるくだりは、新潮文庫版にもおもしろい部分が。

「あんたは誰です?」
 いきなりこう質問されて、男はぎくりとした。アンジョルラスの澄んだ瞳の底までじっと見つめ、その考えをつかんだ様子だった。彼は世にも横柄で、力強い、決然とした微笑を浮べて、尊大に重々しく答えた。
「わかっている。そのとおりだよ!」
「スパイだね?」
「その筋の者だ」

ユゴー、佐藤朔訳『レ・ミゼラブル(四)』(新潮文庫)

 「その筋の者だ」と妙にハードボイルド(?)なジャヴェール。なおここは岩波文庫では「政府の役人だ。」という無難な訳になっている。