アンジョルラス — 恋人の名は「祖国」

 『レ・ミゼラブル』には幾名かの魅力的な、きわめてストイックな人々が登場するが、アンジョルラス(アンジョーラ)もその一人。

 「アンジョーラは豪い奴だ。」とボシュエは言った。「あのびくともしない豪勇さはまったく僕を驚嘆させる。彼はひとり者だから、多少悲観することがあるかも知れん。豪いから女ができないんだといつもこぼしてる。ところがわれわれは皆多少なりと情婦を持っている。だからばかになる、言い換えれば勇敢になる。虎のように女に夢中になれば、少なくとも獅子のように戦えるんだ。それは女から翻弄された一種の復讐だ。ローランはアンゼリックへの面当に戦死をした。われわれの勇武は皆女から来る。女を持たない男は、撃鉄のないピストルと同じだ。男を勢いよく発射させる者は女だ。ところがアンジョーラは女を持っていない。恋を知らないで、それでいて勇猛だ。氷のように冷たくて火のように勇敢な男というのは、まったく前代未聞だ。」
 アンジョーラはその言葉をも耳にしないかのようだった。しかし彼の傍にいた者があったら、彼が半ば口の中でパトリア(祖国)とつぶやくのを聞き取ったであろう。

ユーゴー、豊島与志雄訳『レ・ミゼラブル(四)』(岩波文庫)

 パトリア(Patria)とはラテン語。この語感は女性名風であるので、女性の話をするボシュエの言葉を受けて、「祖国」を女性と見立てての発言だろう。「私は国家と結婚している」と言ったエリザベス一世にも恋人はいたそうだが、アンジョルラスの恋人は真実、「祖国」であった。

 ジャヴェールなどは意識的にストイックな生き方を選択しているようだが、アンジョルラスはそもそも心底、こうしたことに関心がない、という印象を受ける。禁欲的というよりは、アセクシュアル的な人物像である。彼はまた恋愛のみならず、あらゆる享楽に対しても同様に関心がない。

彼はほとんど薔薇を見たことがなく、春を知らず、小鳥の歌うのを聞いたことがなかった。エヴァドネの露わな喉にも、アリストゲイトンと同じく彼は心を動かされなかったであろう。彼にとってはハルモディオスにとってと同じく、花は剣を隠すに都合がよいのみだった。彼は喜びの中にあっても厳格だった。共和以外のすべてのものの前には、貞操を守って目を伏せた。彼は自由の冷ややかな愛人であった。

ユーゴー、豊島与志雄訳『レ・ミゼラブル(二)』(岩波文庫)

 彼のあらゆる情熱は、すべてその目指す「共和」の世界へのみ向けられているのである。

 アンジョルラスといえば、ことあるごとにその容貌の美しさが延々と描写されていることでも有名(?)だが、その並外れた美貌とこうした人格とが相まって、作中でもひときわ異彩を放つカリスマ的キャラクターとなっている。