基本的な紹介は、'73映画版と、聖書等における元人物をベースに書いています(一部例外あり)。
各キャストごとの感想は、正確にいうと各バージョンごとの感想を大いに含むところがあります。全くといっていいほど演出が違うため、単純に演じる俳優さんによる比較というのができないので。従って「何もこの人の所為じゃないんだけど」という箇所も色々ありますがご容赦ください。
スーパースターとして期待され、それゆえに受難したJesus、この作品は彼をあくまでも「人間」として描く。そのため、突飛な「奇跡」を具体的に行うようなシーンはない。 "Why should I die?" なぜ私は死ななければならないのか? 神を疑い、その真意を問うて葛藤する。しかしもちろん、単なる人間ではない。ひとりの「神に選ばれた青年」であるがゆえの苦悩。
選ばれるということは、大いなる孤独である。Maryの愛も、Judasの愛も、使徒たちの(ちょっとズレた)敬愛も、傍らにありながら、すり抜けてゆく。あまりに哀しいスーパースター。
問題は、復活しないのである。しない、と言ってしまうと語弊があるのもしれないが、少なくともこの作品はそこまで描くことをしない。ステージでは、カーテンコールが復活の象徴になっている、という意見も聞いたが、果たしてスーパースター・ジーザスの復活はあり得たのか? こと映画版では、その判断は観る者に委ねられているようにも思う。
何はともあれ風貌が素晴らしい。好み! 華奢ながらも確かなカリスマ的存在感、ヒゲも忘れる美しい御方。愁いを湛えた笑みも素敵。何というか、不健康そうというかやつれてるというか病弱そうというか(褒め言葉)そんな風貌で、映画ということもあってリアルにその痛々しさが伝わってくる。
演技に関しては、特に前半は、非常に感情移入しづらい。といっても抑もJesusに感情移入する作品ではないとも思うが、これが非常に「理解できない」人なのである。そういう演技なのか、それともあまり細かい演技をしないで音と雰囲気で魅せるからなのか、というのがどうも決めかねるところがある。しかしMaryに構われようがPilateに迫られ(違うってば)ようが心ここにあらずのストイックさは、良いのか悪いのかは別として、私は非常に好みだ。
歌はかなり個性的。きわめて神経質そうなハイトーンヴォイス。ヒステリックな歌と、先述のとらえどころのない表情が相まって不思議な感じを醸し出す。一見、飄々とした感すらある。だがこの人は、テンションが上がれば上がるほど凄まじい歌唱を聞かせる。良くも悪くもニューステージ版のJesusとは対照的な感じ。シャウトが、これぞ! って感じの素晴らしさ。決して綺麗に響く高音ではない、しかしただの絶叫でもない。"Gethsemane"のシャウトはほんとに絶品。……と言いたいのだけど、実は海外サイトでうっかり聴いてしまったこの方のかなり後のライヴ版"Gethsemane"が、神業というべき凄さで、それに比べてしまうと、映画版はやや物足りない。ブート音源なので音自体は聞きにくいのだけど、時を経て熟練したのかライブだからなのか、鬼気迫りようがケタ違いなのである。ちょっと残念。とはいえ、映画で聴ける歌も充分素晴らしいことは確か。
演技がよくわからないと書いたが、あくまでもそれは冒頭の話。最後の方に至っては、もう好みすぎて困る!(笑)というくらい。特にこれまた苦悶の表情が危ないくらい絶品で、そりゃ拷問したくもなるわ(違うって)。敢えて言うなら、どこまでもストイックな表現が齎す、結果的なセクシーさ、それが魅力のJesus。(笑)余談ながら Ted は Theodore らしい。名前好き。
お人形みたいな睫毛ばしばしの大きな青い目とブロンド巻き毛、ヒゲもなく、なんとなく天使のような顔立ち。体格などは結構普通に大の男という感じなのにも拘わらず妙ーに可愛い人。死に顔などとても神々しく、宗教画のようですらある。貴族的な顔立ちや声は良くも悪くもパンキッシュ空間に異彩を放っており、存在感は抜群。しかし、あまり私はJesusにこの手の可愛さは求めない。どうもハードロック感に欠ける綺麗な声のためか、Jesusの歌で炸裂するシャウトが似合わない。悩んだらメソメソする少年、暴れたら駄々っ子のようで、いかに人間的なJesusとは言え、使徒の皆さんやMaryに支えられている弱々しさといい、どうもカリスマ性に欠ける。もう少し孤高の感じが欲しいところ。Maryに鼻の下伸ばしてデレデレしたり甘えたり頼りなくぶっ倒れたり、喜怒哀楽が素直に顔に出るどうしようもない坊ちゃんキャラで、そりゃいじめたくもなるわ(笑)。鞭打ちシーンで悲鳴を上げるのがどうも苦手。感情的なのは良いけど、そのあたりはじっと苦痛に耐えて欲しい。
しかし、最後の晩餐あたりはなかなか素晴らしい。低音の表現力、細かい演技で、とても魅せるのである。変化を遂げていくJesus、という観点で見るべきなのかもしれない。
音楽的に最大の見せ場とも言える "Gethsemane" は、やはり綺麗すぎてシャウトなどに不満があるものの、幾許の狂気のような静けさを含んで呟く "Alright, I'll die" がとても好き。
ところで、映画版のJesusとJudasの関係性が師弟愛、崇拝と慈愛、そして友愛といったものをベースに感じさせるのに比べ、こちらはもはやこの二人(と一応Mary)の、精神的恋愛ものになっている。流石、女性監督! というと偏見かもしれないが、実際的に言ってこういうのは女性ならではの感性だと思うのだ(逆にこれ、男性にウケるのかは不明)。愛し合っているのに、結果的にすれ違う。構図は同じだが、感覚的にもわかりやすく、またその分、生々しくなっている。
イエスを裏切り売ったことであまりにも有名なイスカリオテのユダ。しかしこの作品は、彼をただの悪役としては描かない。非常に複雑な感情と視野を持っていたJudasと、Jesusとの関係性は一つの軸となっている。影の主役。しかし、彼の目は果たしてどこまで見ていたのだろう。暢気な(というか鈍い)使徒たちの間で唯一JudasのみがJesusを理解していたことは確かだが、それもまた完全ではなかっただろう。
ユダは、いわば一行の中の経理担当。「香油を無駄にするな」というのに具体的な値段などを出してくるあたり経済観念の細かい人と思われる。しかしながら聖書にはあまり人となりなどは描かれていない上、何につけても「後にイエスを裏切る〜」という肩書きが付く。こと「ヨハネによる福音書」では、何か私怨でも?(笑)と思うくらい貶されていて、香油がもったいないと言ったのも貧しい人を思ってのことではなく日ごろお金を横領していたせいだなどとわざわざ説明されている。実はユダが自殺したと明記しているのは「マタイによる福音書」のみだが、この作品のシーンはそれに準じている。
しかし、このJudasが、私には非常に難解というか、未だに理解できていない部分が多々ある人物。というよりも、感覚的には非常に解る気がするのに、どうも理論的に説明できない。
もの凄い歌唱力に、もの凄い表現力。とにかくその卓越した安定感が全編通して安定して持続される。うっかりすると巧すぎて他の人から浮いているような気さえする。上記の、Judasというキャラクタに対する「解らない部分」をもってしてもなお、それ以上に感覚に訴えかけられる人である。
何といっても、歌が巧すぎる。ソウルフルな、パワーある歌声。どうやらこの方は、歌手らしい? しかし絶望の表情に至るまで、演技力も凄まじい。
そんなわけで、本当に素晴らしいんだけど、私的にはその「素晴らしい!」を超越した好みの何か、というものがいまひとつないらしくて、つっこみどころもない代わりに、熱く語るのもわりと難しいという……。シーンごとになら多分色々とあるのだが。
Jesus役が白人なのに対してJudasが黒人というのは、なんだか意味深に思える。しかし実際にはこれはたまたまで、特に意図はないらしい。絵画では、ユダの衣は黄色に描かれるという(黄は裏切りを象徴する色とされる)が、彼は全身オレンジ(赤?)の服装に、いかにもユダというヒゲ。なお死後に次元を超えて "Superstar" が歌われるシーンでは、白い衣装になっている。
当初気が進まなかったニューステージ版を見ようと思ったのは、彼のJudasが見たかったから。ということで溺愛。しかし別に依怙贔屓で言うのではなく(多分)実に素晴らしいJudasである。
が、正直のところ、嫌いな人は非常に嫌いなんじゃないかと思うような、際どさがある。その屈折ぶりが尋常でなくて、うっかりすると「厭な人」感を醸し出す。口調(=歌)を皮肉な笑みが裏切り、その笑みをさらに視線が裏切る。とても複雑で、きわめて素直になれない人。しかし、映画版では誰一人理解してくれなくて可哀想なのはJesusだと思ったのだが、こちらはより誰一人理解して貰えなくて可哀想なのは、どうもJudasに思えてならない。
散々こちらの版のJesusが苦手のように書いたが、二人セット(笑)という点で見ると、Jesusがああいうキャラならではこそ、このJudasがあり得るのかもしれない。Jesusは、終始Judasに何かを訴えかけている。これでカール的なJudasだと、何というかついに理解し合えてハッピーエンドになって駆け落ちでもしてしまいそうだしね(嘘)。救ってくれと言わんばかりにまっすぐ向けられるJesusの目を、受容できないJudas。一方でJudasが本当は向けている「理解」を受け入れられないJesus。それゆえに彼らは哀しいし、物語として正しくもあると思うのである。映画は、どちらかというとJesusの方が屈折していてJudasは直情型、こちらはむしろその逆、と思える。……つまり私は屈折した人が好きなのか。
脱線したがジェロームのJudas、苦しそうな歌い方がとってもときめく。というと何か違う意味にとれるけど、技術的に苦しそうという意味ではなく、Judasの苦痛がそのまま歌になっている印象、ということ。これはむしろ映像として見るより純粋に音楽として聴くと一層感じるのだが、冒頭からして「苛まれてる」という感じ(先にCDで音楽を聴いたので、実はその歌を思い切り裏切るあの映像には驚いたのだが)。ジェロームの歌は、いわゆる「巧い歌」とは違う気もするのだが、ハイトーンのヒステリックなひっくり返りっぷりが最高。Judasのナンバーって、それが最高に発揮されている。ひっくり返ってると言っても、高音が出ないために全体的に裏返っている系じゃなくて、ポイントで喘ぐようにキュッと裏返ってる(?)、これが私はひじょーうにときめくところなのである(ご本人は、Judasのキーは自分の声に対して随分高いと言っているが……私はむしろその辺のキーがスキなんだけどなあ・笑)。癖が強いし、受け付けない人はダメかも、とは思うけれど、とにかく私の歌の(ロック系の)ツボにハマってしまった。
外見はJudasらしく黒髪に無精髭だが、本来はとっても端正で可愛い顔(そうなのよ!)なので、どうもいまいち髭が似合っていない気はする。髪型に関してはつっこまないでいただきたい。服装は黄色どころか、赤だったり濃い青だったり黒だったりと変化する。
"Superstar" のシーンで世界が完全にセパレートされていないのも、JesusとJudasの関係性に焦点を絞った演出ゆえなのだろう。ふと生前の(?)Judasの表情に戻って、十字架を背負うJesusに何か語りかける。すると、Jesusがその彼を見て何か答える。最後まで、彼らは見つめ合っている。ついにJesusが杭を打ち込まれると、シンクロするかのようにJudasが苦悶の悲鳴を上げる。あるいは彼らは表裏一体というか、非常に対等に近いポジションでの光と影だったのろうか。そうだとして、これをイエスとユダ、と考えると、それを含めてなんだか違う、と思えるということもあり、良いか悪いかはちょっと決めかねるが、あくまで彼ら二人の関係性、という意味では非常に好きである。さらに、最後までJudasは出てくる。死んだのにずっと出てくるというと妙だが、これは精神的、象徴的な意味でそこに居るのだろう。十字架から降ろされたJesusに歩み寄り、じっと最後まで見つめる目は、まさに絶妙。とかく、切ないJudasである。
……長! でもまだまだ言いたいことはあるのでそのうちに。(笑)
余談ながら名前のアクサンはクレジットでは付いてなかったけど、付けておきます(笑)。
かつては娼婦であったが、改心し、イエスに仕えるようになったマリア。女性弟子の代表格(?)。聖書のマリアは、使徒たちが逃げてしまった中イエスの磔を見守り、復活したイエスは彼女に最初に姿を見せた。非常に強い女性という印象を受ける。なお「マグダラのマリア」と「ベタニアのマリア」とは一般的に混同されているが、作中でもミックスされている。
MaryはJesusに恋することにより変貌していった女として描かれるが、しかしその愛情は非常に母性的でもある。ニューステージ版のエドワーズ監督が言っているように、母であり、姉であり(英語なので姉か妹かはわからないけど、どう考えても姉だろう。笑)、そして恋人であるMary。それらすべてが混在している複雑な女性。
とにかく、歌唱が絶品。美声に個性的な歌い方で、インパクトが凄い。この人は、東洋系らしき風貌。ハワイ出身の歌手だそうである。この映画で見る限りでは決して美人ではないが(失礼・しかしあくまでこの映画においてということで、他で見た写真はもっと綺麗だった)、非常にエキゾチックで印象深く、それがまたこの映画の雰囲気作りに一役買っていると思う。
しかし、全編同じように安定した感じで、Mary個人の心境の変化がやや解りづらい。もっとも、敢えて派手に心境を示さない歌い方は、映画全体にある雰囲気でもあり、何も彼女に限ったことではないかもしれないが。しかし他の主要人物に比べると、演技で魅せるという点では若干弱い印象がある。
こちらは、演技派Mary。もちろん歌唱力も素晴らしいけれど、イヴォンヌ・エリマンのような歌だけで世界を作り上げてしまうほどのインパクトはやはりない。しかし、やはりミュージカルとはこうでなければ、と思わせられる、演技と歌との一体化が素晴らしい。彼女を見てはじめて、Maryというキャラクタにとても納得がいった。Jesusへの愛情によって、これまでの自分が崩れていく。Maryの見せ場である "I Don't Know How To Love Him" は本当に素晴らしい。
それにしてもJesusが甘えっ子風だからか、細くて綺麗な人なのに、なんだかやけにたくましく見える。演出が恋愛モノ仕様(違)なために、こちらのMaryはJudasと大変に仲が悪い。三角関係というほど単純ではないが、Judasはかなり露骨にMaryを嫌悪していて、しかしMaryも黙っていない。Jesusは私が守ってあげる! といわんばかりである。しかしどちらかというとJesusの心はJudasの方に行っていて(というのは、単に愛ということではなく、あらゆる感情を総括した関心の度合いとして)、ちょっとある意味可哀想でもある。Maryがというより、キャラクタのポジションとして。
ローマの総督ピラト。という肩書だけでは解りにくいが、この時代イスラエルはローマの支配下にあり、統治のため彼はローマから派遣されていたわけである。この地において実質的には権力者ながら、その立場は複雑ともいえる。ローマに支配されていながらも彼らを見下している(見下す、などという甘いものではない感じもする)ユダヤ人を統治せねばならない立場であり、結果的にはその「民衆」の感情を逆撫でしてまで正義を貫くことはできなかったために、悪名高く語り継がれる存在となってしまったピラト。
卑怯と言われるが、真摯で真面目な一面もあったのではないだろうか。イエスの裁判にあたって、ピラトは何度もその無罪を主張し、様々な手段で訴えかけている。本当に彼が私欲のみを優先させる人間なら、抑もその必要もなかったはずだ。だがしかし、周りは悉く耳を貸さなかったのである。ここでなお民衆を否定してまで正義を貫くことは、ユダヤ人を治める立場からすれば非常に危ういことであっただろう。
さて作中のPilate(特に映画版)がJesusを救おうとしたのは、単純に法的な理由のみならず、一人の特殊な青年の持つカリスマ性のようなものに強く惹かれていたからであるように見える。Maryが示した女性としての愛、あるいは母にも似た慈愛や、Judasが示した魂の同性愛とでもいうべき深い愛とはまた異なる側面から、彼もまたJesusに強く惹かれた人間の一人だったのではないだろうか。しかしMaryがおそらく感覚的に、Judasがかなり理論的にJesusを理解していたのとは異なり、彼はJesusを理解することがついにできなかったのかもしれない。
緩急自在な歌唱もさることながら、表現力がもの凄い。おそらく彼の表現のおかげで、このPilateはあまりにも魅力的な人物になっている。私は映画版の登場人物で、ある意味ではPilateが一番好きである。しかしそれも、この人の心に迫る存在感が大きい。
Jesusというひとりの青年を、理解したかったけれども、理解できなかった男。きわめて刹那的だが、これも愛のひとつの形かもしれない。
彼がどうにか差し伸べた(つもりの)救いの手は、悉く拒絶される。Pilateは、まずJesusと問答する。ユダヤの王よ、おまえの王国はどこにあるというのだ? これは本当は嘲っているのではなく、彼は純粋にJesusを理解したかったんじゃないだろうか。Jesusのその諦念(と彼には見える)はどこから来るのか、自分が感覚的に惹かれるものの正体は何なのか、知りたかったのではないだろうか。諸々の問いに対してJesusは一応答えを返している。だが結論だけで抽象的で、親切な説明はしない上に、おまえは何もわかってない、というつれない反応。実際、Pilateには理解できなかったようである。
そして彼は懸命に、民衆にJesusの無罪を訴えかけるのだ。自分たちの王を磔にしようというのか? だがその民衆は完全に寝返っており、ローマ皇帝の他に王などない、とまで言ってのける。Pilateは、Jesusを救いたいのだが表立っては救えない、自然と助かってくれるよう事態を操作して運べないか、と念じているようである。救いたいというよりは、殺したくない、と言うべきだろうか。何も殺すことはない、鞭打ちに処す、と言う。民衆が納得して退くことを期待したのか、Jesusが観念して答えてくれることを期待したのか、おそらく両方だろう。だが、彼はそのいずれも得ることは出来なかった。鞭打ちをカウントする最後の絶叫が凄まじい。
余談ながら、この三十九回の鞭というのは、四十回の鞭で死に至る、とされているようである。聖書では実際にイエスに対して何度鞭が下されたかは書いていないと思うのだが、パウロの苦労談(違)には「四十に一つ足りない鞭を受けたことが五度」(コリントの信徒への手紙 二 11:24)という話がある。もっともこれは厳密に三十九回ということではなく、殺される寸前の酷い刑罰を受けたのだ、という意味かとも思うが。
さらにPilateは傷ついたJesusを拾い上げ(この構図、非常にストイックなのにある意味セクシーなのである)、考え直せ、と問いつめる。なぜ答えない、お前の生死は私の手の中にあるというのに。だがそれに対してJesusは、おまえは何も手にしていないのだ、すべては定められていることであり、おまえには何一つ変えられない、と答えるのだ。あくまでも、Pilateは拒絶される。(このあたりの一連の問答は、文字だけ追うとほぼ「ヨハネによる福音書」にある話だからすごい)周囲では、磔にせよ! と叫び続ける民衆。兵士に乱暴に掴まれて顔を上げたJesusと視線が合うPilate、このときの彼は、実に絶妙の表情をしている。そうしてついに彼は、俺は手を洗う、勝手にしろ! というのである。ここで実際に手を汚す血を洗う演出は素敵。なお聖書では確か逆で、鞭打たれるのは手を洗った(この場合は象徴的な意味として)後である。
個人的に彼のPilateに惚れた所以のひとつでもある、"Die if you want to!" の絶唱。死にたいのならば死ぬがいい。私の救済(あるいは支配、または愛かもしれない)をあくまでも拒んで死を望むのなら死ね! とも聞こえる。彼は叫ぶ。"Innocent puppet"、哀れな無垢な人形。お前は結局は神にいいように操られている人形ではないか、ということだったのだろうか。もっともPilateがそこまで理解していたはいまいち思えないが。ついでに、そのとき最後に見せるJesusの表情が、実に複雑である。言葉も態度も完全に拒絶だが、この視線はどうだったのか。何気なく(ではないかもしれないけど)投げつけられたこの言葉に、Jesusは何を思ったのか。Judasは最後に「俺は神の犯罪に利用され殺されたのだ」と絶叫したが、「キリスト」ではなく、ゲッセマネで苦悩した一人の選ばれた青年としてのJesusにも、またどこか似た思いは根底にあったのではないか。なぜ私でなければならなかったのか。Judasはその思いを迸らせ、自ら道を閉ざした。だがJesusは、ただ恭順の道を選んだ。死にたいなら死ね、とPilateは叫んだが、決して彼は死にたいわけではなかったように思える。ただ神のプロジェクトのために、死ななければならないならば、受け入れよう。それがJesusだった。JesusとPilateの間には、あまりに根本的なすれ違いがあったように思える。しかしそれもまた、私が惹かれる所以なのである。長!(笑)
この人も、とても素晴らしい。しかしどうにもこの版の生々しい演出が、PilateとJesusの関係性においては私は好みじゃない。登場からしてスゴイ。怪しげな寝室で目覚めたPilateは、素っ裸で涙を流し、打ち震えながら "Pilate's Dream" を歌う。む、胸毛が、むさ苦しいってば。まあ格好はさておき、誰もいないところとはいえ、ここまで露骨に弱さを見せて泣くのが、いまいち好みじゃないのである。確かにPilateは人としての弱さがその根底あるがゆえにドラマティックになっている人物ではあるが、それを押し殺して威圧的な態度に出るその苦悩というものが欲しい。後半のいでたちは、友人曰くハードゲイ風。趣旨に一貫性がある(多分)のはいいんだけど、これまたストイックさの欠片もない(笑)。とにかくこちらのPilateは、苦悩と弱さがあまりにストレートに観客に伝わってくる。鞭で打つカウントなど、もう厭だ! と言わんばかりである。その点の表現力は素晴らしいのだが、私の好みとしては全体的にもう少し抑え気味の感情表現をして欲しいのである。ファッションについては、このバージョンの全体的なイメージに似合っているので良いと思うが(笑)。
そのわりには、Jesusに対する感情というのがいまひとつよくわからない。彼に惹かれたというよりも、私には単純に自分の立場と運命を嘆いているように見える。そちらの方が正しいのかもしれないけれど、ちょっとつまらなくもある。
が、この人の歌唱力は凄い! 大きな体に共鳴しているような大変深みのある声。歌詞の発音も好き。Pilateの雰囲気に合っている(?)のもあるが、個人的にはcanが明瞭にカンと発音されるのに弱い私(笑)。英国式というよりは、イメージ的に言うとドイツ語っぽい英語(実際には、スウェーデンの方らしい)。
大祭司カヤパ。最高法院の長である。彼らには自治が認められていたものの、死刑にする権限まではなかったために、イエスをピラトのところへ連れていったわけである。
美しい重低音が心地よい。しかし他の人が非常にロックなのに比べて、非常にミュージカルだなあと感じる。堂々とした体躯、よく見ると美形。なんだか余裕があって飄々としており、憎めない悪のボスという感じ。
やはり演出の違いだろう。こちらは、彼自身の不安や恐れを強く感じさせる、人間らしいCaiaphas。が、個人的にCaiaphasというキャラに特に愛がなくて、やはりコメントし難い……。
カヤパの舅であり、以前の大祭司であるアンナス。作中では二人の掛け合いナンバーが多く、なんだか面白いコンビとなっている。祭司たちの曲は歌い方のせいもあってか、やはり正統派ミュージカルっぽい雰囲気。
Caiaphasの低音と対を成す凄い高音は聞き応えがある。この人もロック感はあまりない。外観は細長く(笑)やはりCaiaphasと対を成している。Caiaphasの側近風で、なぜかアンナスの方が若年に見える。
もしかしたら名前の読み方はミヒャエルかも。不明。こちらは妙に黒幕という感じのAnnas。小柄でスキンヘッド。Caiaphasが微妙に弱気なのに対し、常にちょっと嫌味にクールなブレーン風である。巷で人気らしいが……
十二使徒の一人、熱心党のシモン。聖書においては、特に何をした人とは描かれていなかった気がする(多分)が、熱心党とは過激派国粋主義の集団であり、武力によるローマからの独立を主張してテロ活動などを行った一派。彼らはイエスに政治的・革命的指導者としての立場を期待していたのだろう。
作中では、Jesusの力と栄光を(勘違い気味に)讃え、その力でローマを打ち倒そう! と群衆を率いて情熱的に歌い上げる。
映画では、やはり特にSimon個人のキャラクタが描かれることはなく、ダンスと歌のインパクトは凄まじいが、やや唐突すぎる印象もある。対して新演出版では、より過激派の雰囲気がよく出ているのではないだろうか。
濃い!(笑)歌も凄いが、ダンスももの凄い。個人的にダンス系にあまり興味がないので良いのか悪いのかはよくわからないが、そういう問題と言うよりも、この人の与えるインパクトは凄まじい。ソロナンバーはかなり好きな曲なんだけど、それ以外の出番があまりなく、人物像などはいまいちコメントし難い。しかしその "Simon Zealotes" というナンバーは "Amen!" と終わるがこれが一瞬何と言っているのかわからないくらいの派手な雄叫びのようで、この音に「アーメン」という、その組み合わせには衝撃を受ける。JCSって、まさにこういうところが好きなのだが(笑)。
若々しくて、熱い。歌い方も、まっすぐ。 使徒たちの中でも一番、今時の若者(笑)って感じの美形。この人、舞台ではJudas役だったそうである。非常に純粋な情熱ゆえに暴走している感じのSimon。ミリタリーファッションで銃を持ってるのが良い。"Simon Zealotes" は元々好きなナンバーだが、このバージョンのストレートな感じのアレンジもかなり良い。よりミュージカル的な表現法で、彼らの熱情は伝わりやすい気がする。前後の演出も良い感じ。ただし、Simonは良いんだけど、それに対するJesusの反応が露骨すぎるのがどうも苦手。(笑)
ヘロデ・アンティパス。イエスの出身地ガリラヤの領主だが、この時はエルサレムに来ていた。なおイエス誕生時のヘロデ王(父)とは別人である。
映画版では、とにかくSimonをも上回る強烈な濃さで、インパクトを残す。(笑) ソロナンバー "King Herod's Song" 以外にはほとんど出番がないが、耳に残る名曲であり迷曲。このナンバーで見られる「水をワインに」「水の上を歩け」などという一連の命令は、それぞれ聖書にイエスの奇跡として記されているエピソードである。
映画で見ているとヴィジュアル的インパクトが強すぎるが、歌もなかなか良い感じ。 あのぶっ飛んだ容姿はもはや言葉では説明し難い……。対岸で無表情に眺めているテッド・ニーリーのJesusとは、あまりに相容れない世界(笑)になっている。
この人、どうしても好きになれない。歌がいまひとつ。King Herodの歌はもう少し音楽的に歌ってもいいはずだ(映画の人が特に音楽的というわけでもないけれど)。演技も、どうも悪質なコメディ感を感じてしまい、苦手。
余談ながら、"King Herod's Song"のお気に入りは1996年(?)のCD。その他の人は普通のキャスト盤のようだが、King Herodをハーロドックミュージシャンのアリス・クーパーが歌っている。色々聞きくらべたわけではないので最高とは確言できないけれど、毒の滴る確信的にサディスティックなKing Herodで素晴らしい。理想的!(笑)
十二使徒の一人であり、聖書中でもメインキャラ(笑)。使徒の中でも、割合人となりが伺える人物ではないだろうか。紛らわしいが本名はシモンで、ペトロは「岩」の意のニックネーム。
何というか、一生懸命だが、ちょっと天然でおっちょこちょい。しょっちゅうイエスに叱られる。イエスが連行されそうになるときも、真っ先に剣を抜いてたしなめられてしまう、ひたむきで熱い人。もっとも特に彼ができの悪い弟子だったというわけではなく、他の人に比べて詳しく書かれているからそう見えるのかもしれないけれど。
ペトロはイエスを三度も知らないと言ってしまうが、すぐに後悔する。この否認も、一種の裏切り行為である。だがペトロはすぐに悔い改め、宣教活動に励むことになる。 その姿は、己の裏切りを自殺という形で清算したユダとは非常に対照的である。
作中の出番は少ないが「ペトロの否認」は健在。しかしその後Maryが咎めるのだが、果たして彼女に咎める権利はあるものか。確かに、もしも自分が訊かれていたなら、Maryは恐れず肯定したのかもしれない。しかし実際には、彼女はその立場にはなかったのである。ちょっと疑問なところだ。
"The Last Supper" でJesusに "Peter will deny me!" と予言されたPeterは、なんだってまさかこの私に限ってそんなことをするものか! と思い切り否定している印象(実際、"No, not me!" とか言っていたような)。そして「ペトロの否認」。"I don't know him!" この人は苦悩というよりは、勢いで言ってしまったものの、ああなんてこった! という感じ。もとからドロドロと深い他の人とはまた違った人間味があるように思う。(決して浅いという意味ではないが)基本的にやっぱり、熱血で一生懸命だけどちょっと大雑把でおっちょこちょいな憎めない人。……な気がする。
こちらは、使徒たち全員のシーンではSimonに美味しいところをすべて持っていかれており、筆頭弟子というにはどうにも影が薄い。しかし非常に真面目でちょっと真面目すぎて損するタイプの、優等生キャラ風。"The Last Supper" 、こちらは反論もせず、愕然としている。もちろん「まさかそんな」とは思ったのだろうけど、それでも自分の中にあるのかもしれない弱さを指摘されて怯えたかのような表情。細やかな苦労人Peter。
十二使徒の一人であり、イエスに側近く仕えた弟子。「ヨハネによる福音書」などの著者とされるが、違うという説もあるようだ。「ヨハネによる福音書」には「イエスの愛しておられた弟子」という表現がしつこく出てくるが、その弟子の名前は書かれていない。一般的にはこれがヨハネとされている。が、ここでヨハネが著者だとしたら、自分で書いているということになる(笑)。名前を明かさないのもなにやら自己満足的で、意味深。ユダのこきおろしように至っては、それって私怨かと思わせられる勢い。いやもちろんこの「愛」というのはアガペーであるが、それにしても、弟子に対してその愛の差があるものなのか? 仮にあったとしても弟子筆頭のペトロ・シモンや、兄弟のヤコブよりも特殊に個人的に愛されていたというのは妙に思えて、著者だとしたら、ちょっとそれって捏造というか誇張気味なんじゃと思わせられる。
って、作品と関係ないけど。
「使徒その1」みたいな扱いなので、キャスト名が不明。しかし意外に目立っている。可愛いというか、ダ・ヴィンチのヨハネほどではないが(笑)、女顔でなよなよした(失礼)青年。ソロパートこそないものの常にJesusの傍らに居て、Jesusが連行された後はMary、Peterと共に居る。
多分この人がJohnなんだろうな? とは思うが(「最後の晩餐」でJesusの向かって右隣に居るベリーショートの若い使徒)こちらは殆ど印象に残らないかも……。よく見るとわかるんだろうか。
無邪気にJesusを讃え、ひたすらに救いを乞い求める。そして最後には掌を返し、彼を死に追いやる民衆。主役たちとは別に、非常に重要な意味を持つのが「群衆」なのである。"Crucify him!"(磔にせよ!)と叫び続ける彼ら。それは個人個人ではなく「群衆」というひとかたまりの恐怖だが、 またその一片は、いつの世のどこの誰でもあり得るのである。
ニューステージ版では、この群衆たちが、その立場を変えてゆく様が非常にヴィジュアル的に表現されている。黒装束に隈取りのようなゴスメイク(笑)でJesusに詰め寄る「群衆」は、非常に無気味である。しかし個人的に、これは敢えてごく普通の何の変哲もない民衆が次第にこの脅威になってゆく様を、内面的に描いている気がする映画版が好きである。