グランテールとアンジョルラス

— 君を信仰してるよ —

 結社「ABCアーベーセーの友」の異端児、Grantaire(グランテール)は、革命には賛同していない青年である。にも拘わらず、彼らの仲間に加わっているのは、ひたすらEnjolras(アンジョーラ、アンジョルラス)に心酔しているため。

 EnjolrasとGrantaire、この二人は対比的に、光と影のように描かれる。Enjolrasは、登場するたびにその才能と美貌についてくどいほどの描写がなされ、命を奪おうとする敵兵さえ「花を撃つような気がする」と躊躇うという、ストイックにして勇敢な孤高のカリスマ美青年であるが、Grantaireは「何事をも信じようとしなかった男」、懐疑家の退廃的な、醜い青年。Enjolrasがあらゆる享楽に関心がないのとは対照的に、Grantaireは詩的で粋な皮肉屋の酒飲みである。「グランテール」という響きとかけて、一文字、"R"と署名していた、などという洒落たエピソードもある(大文字のR、つまり"Grand R"。仏語のRはエール)。

 彼に関する説明は、以下のようである。

 民衆の権利・人間の権利・社会の約束、仏蘭西革命、共和、民主主義、人道、文明、宗教、進歩、などというすべての言葉は、グランテールにとってはほとんど何らの意味をもなさなかった。彼はそれらを笑っていた。懐疑主義、この知力のひからびた潰瘍は、彼の精神の中に完全な観念を一つも残さなかった。彼は皮肉とともに生きていた。彼の格言はこうであった、「世には一つの確かなることあるのみ、そはわが満ちたる杯なり。」兄弟であろうと父であろうと、弟のロベスピエールであろうとロアズロールであろうと、すべていかなる方面におけるいかなる献身をも彼はあざけっていた。
 「死んだとはよほどの進歩だ。」と彼は叫んでいた。十字架像のことをこう言っていた、「うまく成功した絞首台だ。」彷徨者で、賭博者で、放蕩者で、たいてい酔っ払ってる彼は、絶えず次のような歌を歌って、仲間の若い夢想家らに不快を与えていた。「若い娘がかわいいよ、よい葡萄酒がかわいいよ。」節は「アンリ四世万々歳」の歌と同じだった。
 それにこの懐疑家は、一つの狂的信仰を有していた。それは観念でもなく、教理でもなく、芸術でもなく、学問でもなかった。それはひとりの人間で、しかもアンジョーラであった。グランテールはアンジョーラを賛美し、愛し、尊んでいた。この無政府的懐疑家が、それら絶対的精神者の一群の中にあって、だれに結びついたかというに、その最も絶対的なるものにであった。

ユーゴー、豊島与志雄訳『レ・ミゼラブル(二)』(岩波文庫)

 Enjolrasはそんな彼を軽蔑しているが、それでもなお盲目的な愛情を寄せるGrantaire。

 あるときEnjolrasは(Grantaire以外の)各々の仲間に偵察などを命じるが、Marius(マリユス)がいなくなっていたため、重要な役目を果たす者が足りなかった。

 「メーヌ市門には、大理石工や画家や彫刻家の助手などがいる。みな熱烈な連中だがすぐにさめやすい。僕は彼らの最近の様子がどうも腑に落ちない。何か考えを別の方に向けてるらしい。熱が消えかかってるらしい。いつもドミノ遊びばかりをやって時間をつぶしてる。確乎たる言葉を少し聞かしてやりに行くのが急務だ。彼らが集まるのはリシュフーの家だ。十二時から一時までの間は皆そこにいる。その灰を吹き熾してやらなければいけない。僕はそれをあのマリユスの夢想家にやらせるつもりだった。彼は結局役に立つ男だ。しかしもうやってこない。だれかメーヌ市門へ行くべき者がいるんだが、もうひとりも残っていない。」
 「僕がいる、僕が残ってる。」とグランテールが言った。
 「君が?」
 「僕がだ。」
 「君が共和派の者らを教育するって! 君が主義の名において冷えた魂をまた熱せさせるつもりか!」
 「どうしていけないんだ。」
 「君がいったい何かの役に立つことができるのか。」
 「なに僕にも少しは野心があるさ。」とグランテールは言った。
 「君は何の信念も持たないじゃないか。」
 「君を信仰してるよ。」
 「グランテール、君は僕の用をしてくれるか。」
 「何でもやる。靴をみがいてもいい。」
 「よろしい、それじゃ僕らの仕事に口を出さないでくれ。少し眠ってアブサントの酔いでもさますがいい。」
 「君は失敬だ、アンジョーラ。」
 「君がメーヌ市門へ行けるかね。君にそれができるかね。」
 「できるとも、グレー街をたどって行って、サン・ミシェル広場を通り、ムシュー・ル・プランス街へ斜めにはいり、ヴォージラール街を進み、カルムを通りすぎ、アサス街に曲がり込み、シェルシュ・ミディ街まで行き、参謀本部をあとにし、ヴィエイユ・チュイルリー街をたどり、大通りを横切り、メーヌの大道についてゆき、市門を越え、そしてリシュフーの家へはいるんだ。僕にもそれぐらいのことはできる。僕の靴はそれをりっぱにやってのけるよ。」
 「君はリシュフーの家に来る連中を少しは知ってるか。」
 「大してよくは知らない。ただ君僕と言いかわしてるだけだ。」
 「どんなことをいったい彼らに言うつもりだ。」
 「なあに、ロベスピエールのことを言ってやる。ダントンのことを。それから主義のことを。」
 「君が!」
 「そうだ。だがどうしてそう僕を不当に取り扱うんだ。僕だってその場合になったらすてきなもんだぜ。僕はプリュドンムも読んだ、民約論(ルーソーの)も知ってる、共和二年の憲法も諳んじてる。『人民の自由は他の人民の自由が始まる所に終わる』だ。君は僕を愚図だとするのか。僕は革命時代の古い紙幣も一枚引き出しにしまってる。人間の権利、民衆の大権、そうだ。僕は多少エベール派でさえある。僕はすばらしいことをたっぷり六時間も立て続けにしゃべることができるんだ。」
 「冗談じゃないぞ。」とアンジョーラは言った。
 「僕は素地のままだ。」とグランテールは答えた。
 アンジョーラはしばらく考えていたが、やがて心をきめたらしい身振りをした。
 「グランテール、」と彼はおごそかに言った、「僕は君を試してみよう。メーヌ市門へ行ってくれ。」
 グランテールはミューザン珈琲店のすぐとなりに部屋を借りていた。彼は出て行ったが、五、六分とたたないうちにもどってきた。家に行ってロベスピエール式のチョッキを着てきたのである。
 「赤だ。」と彼ははいってきながらアンジョーラの顔をじっと見て言った。
 それから強く手のひらで、チョッキのまっかな両の胸をなでつけた。
 そしてアンジョーラに近寄って耳にささやいた。
 「安心したまえ。」
 彼は決然と帽子を目深に引き下げて、出かけて行った。

ユーゴー、豊島与志雄訳『レ・ミゼラブル(三)』(岩波文庫)

 だがこの後Enjolrasが様子を見に行くと、なんとGrantaireはメーヌ市門の連中と一緒にドミノに興じていたのである。

 そんなGrantaireにも、変化が訪れる。最後の戦いの前に、このようなやりとりがある。

 手に銃を持って防堤の上に立っていたアンジョーラは、その厳乎たる美しい顔を上げた。読者の知るとおりアンジョーラにはスパルタ人の面影と清教徒の面影とがあった。テルモピレーにてレオニダスとともに死し、クロンウェルとともにドロゲダの町を焼き払うのに、彼はふさわしい男だった。
 「グランテール!」と彼は叫んだ、「他の所で一眠りして酔いをさましてこい。ここは熱血児の場所で、酔っ払いの場所ではない。君は防寨の汚れだ。」
 その憤激の一語は、グランテールに特殊な影響を与えた。彼はあたかも顔に一杯の冷水を浴びせられたようだった。そしてにわかにまじめになった。彼は腰をおろし、窓のそばのテーブルの上に肱をつき、何とも言えぬやさしさでアンジョーラをながめ、そして彼に言った。
 「僕は君を信頼してるよ。」
 「行っちまえ。」
 「ここへ寝かしてくれ。」
 「他の所へ行って寝ろ。」とアンジョーラは叫んだ。
 しかしグランテールは、当惑したようなやさしそうな目をなお彼の上に据えて答えた。
 「ここに僕を眠らしてくれたまえ……死ぬるまで。」
 アンジョーラは軽蔑の目で彼をながめた。
 「グランテール、君は信ずることも、思索することも、意欲することも、生きることも、死ぬることも、みなできない男だ。」
 グランテールはまじめな声で返答した。
 「まあ見ていたまえ。」
 彼はなお聞き取り難い言葉を少しつぶやいたが、それからテーブルの上に重そうに頭をたれ、アンジョーラから酩酊の第二期に突然手荒く押し込まれたので、その常として、間もなく眠りに陥ってしまった。

ユーゴー、豊島与志雄訳『レ・ミゼラブル(四)』(岩波文庫)

 泥酔したGrantaireは、戦闘のさなかもずっと寝入ったまま。やがて次第に皆が戦いに倒れていき、怪我で気を失ったMariusをValjeanが密かに連れ出すと、残るはEnjolras(と、存在を忘れられているGrantaire)のみとなる。Enjolrasに銃を向けるも、先述のように「花を打つような気がする」と躊躇う敵兵。そこにGrantaireがようやく目を覚ます。

 グランテールは片すみに押しやられ、球突台のうしろに隠れたようになっていたので、アンジョーラの上に目を据えていた兵士らは、少しも彼に気づかなかった。そして軍曹が「ねらえ」という命令を再び下そうとした時、突然兵士らの耳に、傍から強い叫び声が響いた。
 「共和万歳! 吾輩もそのひとりだ。」
 グランテールは立ち上がっていた。
 参加しそこなって仲間にはいることができなかった全戦闘の燦然たる光は、様子を変えたこの酔漢の輝く目の中に現われた。
 彼は「共和万歳!」と繰り返し、しっかりした足取りで室を横ぎり、アンジョーラの傍に立って銃口の前に身を置いた。
 「一打ちでわれわれふたりを倒してみろ。」と彼は言った。
 そして静かにアンジョーラの方を向いて言った。
 「承知してくれるか。」
 アンジョーラは微笑しながら彼の手を握った。
 その微笑が終わらぬうちに、発射の音が響いた。
 アンジョーラは八発の弾に貫かれ、あたかも弾で釘付けにされたかのように壁によりかかったままだった。ただ頭をたれた。
 グランテールは雷に打たれたようになって、その足下に倒れた。

ユーゴー、豊島与志雄訳『レ・ミゼラブル(四)』(岩波文庫)

 このように、Enjolrasを信じ続けながら同時に裏切り続けたGrantaireと、それを軽蔑し拒絶していたEnjolrasは、最後には手を繋ぎ合って共に死んでいく。死を前にしてはじめて認められ、赦され、おそらくは愛されたのだろうGrantaire。立ったまま壁によりかかり、こうべを垂れるというEnjolrasの死に様は、磔のイエス・キリストを現しているのだろうか。

 ところで、Grantaire最大の名言のひとつは上記の「君を信仰してるよ。」ではないだろうか。Enjolrasという本来生身の一人の人間であるはずの存在を、「信仰」してしまうのである。なんて的確な言葉だろう、と思ったのだが、どうやら他の訳では残念ながら(?)単に「信じる」となっているようだ。例えば、

「君は何も信じないじゃないか」
「君を信じているさ」

ユゴー、佐藤朔訳『レ・ミゼラブル(四)』(新潮文庫)

「きみはなにも信じていない」
「きみを信じているよ」

ユゴー、辻昶訳『レ・ミゼラブル 4』(講談社文庫)

「君は何も信じてないんだろう」
「君を信じてるよ」

ユゴー、坪井一・宮治弘之訳『世界文学全集16 レ・ミゼラブル II』(集英社)

 この箇所の原文。(対訳は豊島訳)

—Est-ce que tu peux être bon à quelque chose?
「君がいったい何かの役に立つことができるのか。」
—Mais j'en ai la vague ambition, dit Grantaire.
「なに僕にも少しは野心があるさ。」とグランテールは言った。
—Tu ne crois à rien.
「君は何の信念も持たないじゃないか。」
—Je crois à toi.
「君を信仰してるよ。」
—Grantaire, veux-tu me rendre un service?
「グランテール、君は僕の用をしてくれるか。」
—Tous. Cirer tes bottes.
「何でもやる。靴をみがいてもいい。」
—Eh bien, ne te mêle pas de nos affaires. Cuve ton absinthe.
「よろしい、それじゃ僕らの仕事に口を出さないでくれ。少し眠ってアブサントの酔いでもさますがいい。」
—Tu es un ingrat, Enjolras.
「君は失敬だ、アンジョーラ。」

 "croire"("crois"は活用形)は幅広く「信じる」の意で、特別な意味はなさそう。直訳するとこのやりとりは「君は何ひとつ信じていない」「僕は君を信じている」となってしまいそうである。「信仰」とは「名」意訳なのかもしれない。

 訂正:と、思ったが……辞書をよく見ると "croire à 〜" は「〜(の存在・実現・真実性・価値など)を信じる」とあり、やや限定的な意味での「信じる」になるらしい。もっとも「強い希望・信仰心を表す場合にはenを用いることがある」ともあって、〜 en Dieu(神を信じる)が例文として載っている。しかし豊島訳の「君を信仰してる」は、決して意訳ではなく、より詳細なニュアンスを伝えようとした訳なのかも。

ミュージカル版 Grantaire

 ミュージカル『レ・ミゼラブル』にもGrantaireは登場するが、その人物像やEnjolrasとの関係性は原作とは少し異なるように思える。

 ミュージカル版Grantaireは、Enjolrasの後を追って死んでいく。革命を否定して飲んだくれているGrantaire。潔くバリケードの頂に立って赤い旗を振ったEnjolrasが撃たれるや、同じ場所へと駆け上り、その面影を追うよう、旗の代わりに手に持っていた酒瓶を振って斃れていく。

 脇役に徹している学生たちの間で、彼はひときわ目立つ。Enjolrasに差し向けた酒瓶は拒絶され、その目の前で他の人から回されてきた酒を受け取られてしまう。皆が戦い初めてもひとり諦念しているのに、Enjolrasが遂に死んでしまってからのあの短い時間に初めて立ち上がる様は、「君の志は受け継いだ」と言っているかのようだ。それは届かない愛の告白のようでもある。バリケードにて死を覚悟する学生たちの中でひとり、革命に倒れていくことに本当に意味はあるのか、と唱えるGrantaire。ほんとうは、意味があればよいのに、と言う切なる願いがその根底にあるようにも思える。だが彼は、最期には願いを叶え得たのではないだろうか? カフェ・ソングの背後に現れる面影の中のGrantaireは、Enjolrasと仲良さそうに肩を組んだりして立っていた。劇中のEnjolrasは、生きている間には決して彼を認めなかったように見えるが、あるいは死後に二人の友情(友情というと違和感があるが、愛情というのも少し違う気がする)は結ばれたのだろうか。

 原作では死の間際に結ばれるが、舞台では死後に結ばれる(?)二人。どちらも好きだが、キャラクターとしてはほぼ別の存在と考えるべきかもしれない。