名はユルスュール — マリユスの夢想

 レ・ミゼラブルきっての夢想家・マリユスは、リュクサンブール公園で見かけるコゼットに恋する。舞台のように一目惚れではなく、最初は気にも留めていなかったコゼットが年月と共に美しい娘になったのを見、やがて恋に落ちる。ただ見つめるだけの恋、マリユスは彼女の素性も名前も知らない。あるとき彼は落とされたハンカチを見つけ、そこに刺繍された頭文字から勝手に「ユルスュール」という名前だと信じ込む。その微笑ましいのか間抜けなのか判断に困る箇所は、以下のようである。

 ある日の午後、たそがれ頃に、「ルブラン氏とその娘」とが立ち去ったベンチの上に、彼は一つのハンカチを見いだした。刺繍もないごくあっさりしたハンカチだったが、しかしまっ白で清らかで、言うべからざるかおりが発してるように思えた。彼は狂喜してそれを拾い取った。ハンカチにはU・Fという二字がついていた。マリユスはその美しい娘については何にも知るところがなかった、その家がらも名前も住所も知らなかった。そしてその二字は彼女についてつかみ得た最初のものだった。大事な頭文字で、彼はすぐその上に楼閣を築きはじめた。Uというのはきっと呼び名に違いなかった。彼は考えた、「ユルスュールかな、何といういい名だろう!」彼はそのハンカチに脣をつけ、それをかぎ、昼は胸の肌につけ、夜は脣にあてて眠った。
 「彼女の魂をこの中に感ずる!」と彼は叫んだ。
 しかるにそのハンカチは実は老紳士ので、たまたまポケットから落としたのだった。
 その拾い物の後はいつも、マリユスはそれに脣をつけ、それを胸に押しあてながら、リュクサンブールに姿を現わした。美しい娘はその訳がわからず、ひそかな身振りでそのことを彼に伝えた。
 「何という貞節さだろう!」とマリユスは言った。

ユーゴー、豊島与志雄訳『レ・ミゼラブル(二)』(岩波文庫)

 ルブラン氏("monsieur Leblanc"、「白」氏の意)というのはジャン・ヴァルジャンのことだが、名前を知らないクールフェーラックがあだ名を付け、マリユスたちの間で通称となっていたもの。

 「Uというのはきっと呼び名に違いなかった」とあるがここでの「呼び名」はファーストネームの意。この「U.F.」の正体は、この当時にヴァルジャンが使っていた偽名「ユルティム・フォーシュルヴァン(Ultime Fauchelevent)」の頭文字だった。しかしこれをコゼットのものと思いこんでいたマリユスは、娘の名は「ユルスュール(Ursule)」に違いない! と考え、次第にこれが推測の域を超えて、

「しめた、」と彼は考えた、「ユルスュールという名前であることもわかったし、年金を持ってる者の娘であることもわかったし、あのウエスト街の四階に住んでいることもわかった。」

ユーゴー、豊島与志雄訳『レ・ミゼラブル(二)』(岩波文庫)

 ……などと思うようになる。

 そんな無茶な! と思ってはいけない。基本的に西洋のファーストネームは日本人の名前のように多種多様に組み合わされることはなく、伝統的な名(特に聖書由来の名が多い)から選ばれるため、一般に考え得る名前というのは限られてくる。最近のフランスでは外国人風の名も流行っているようだが、この時代である。エポニーヌは母の趣味で奇抜な名前をつけられたりしているが、お嬢さんとなれば伝統的なごく普通の名前であると考えていいだろう。

 そして「U」ではじまるフランス語の女性名は少ない。むしろ他にほとんどない。おそらく「Uの付く女性といえば Ursule」という推測はごく普通に可能であり、マリユスがまったく空想的に名付けたというわけではない。

 とはいえ、そもそもジャン・ヴァルジャンのハンカチをコゼットのものと思いこんだり、確証のない名前への思いこみが高じて現実と混同しているあたり、やはり人並み外れた感性ではあるのだが……。

 なお「コゼット」は母ファンティーヌがつけた愛称で、彼女の本名は「ウューフラジー(Euphrasie)」という。現在ではあまり使われないようだが、当時としては一般的なフランス語女性名であった。