文庫版『レ・ミゼラブル』日本語訳の比較

岩波文庫版、新潮文庫版、講談社文庫版、ちくま文庫版の訳について、同一箇所を引用して比較してみた。
原文は Project Gutenberg より。個人的好みで選択が偏っていますが……。

豊島与志雄 訳 (岩波文庫)佐藤朔 訳 (新潮文庫)辻昶 訳 (講談社文庫)西永良成 訳 (ちくま文庫)
L'homme ouvrit des yeux étonnés.
—Vrai? vous saviez comment je m'appelle?
—Oui, répondit l'évêque, vous vous appelez mon frère.
—Tenez, monsieur le curé! s'écria l'homme, j'avais bien faim en entrant ici; mais vous êtes si bon qu'à présent je ne sais plus ce que j'ai; cela m'a passé.
 男は驚いた目を見開いた。
「本当ですか。あなたは私が何という名前か知っていられたのですか。」
「そうです。」と司教は答えた。「あなたの名前は私の兄弟というのです。」
「司祭さん、」と男は叫んだ、「ここにはいって来る時、私はたいへん腹がすいていた。けれどあなたがあまり親切なので、今ではもうどうなのかわからなくなりました。そんなことは通りすぎてしまったんです。」
 男は驚いて目を見ひらいた。
「ほんとですか? わたしの名を知っていたのですか?」
「そうです」と司教は答えた。「あなたは〈わたしの兄弟〉という名前です」
「ねえ、司祭さん」と男は叫んだ。「ここに入ったとき、とても腹がへっていました。だが、あんたがたいへん親切なので、今ではそれがわからなくなりました。もう済んでしまった」
 男はびっくりして目を見ひらいた。
「ほんとうですか? わたしの名まえを知っていたんですか?」
「ええ」と司教は答えた、「あなたの名まえは『わたしのきょうだい』です」
「おや、神父さん!」と男が叫んだ。「ここにはいってきたときにゃ、おなかがぺこぺこだったんですが、あなたがあまり親切にしてくれたものだから、いまじゃもう感じなくなっちゃいました。どこかにとんじまったんです」
 男は驚いて目を見張った。
「本当ですか? わたしがどういう名前か知っておられたと?」
「そうです」と司教は答えた。「それは〈わたしの兄弟〉という名前です」
「おや、司祭さん」と男が叫んだ。「ここにはいってきたときには、わたしは腹ぺこでした。だが、あなたがあんまり親切なもんで、今はどういう状態なのか分からなくなりました。空腹もどこかに行ってしまいました」
豊島与志雄 訳 (岩波文庫)佐藤朔 訳 (新潮文庫)辻昶 訳 (講談社文庫)西永良成 訳 (ちくま文庫)
Il y avait encore des Prussiens en France. M. Delalot était un personnage. La légitimité venait de s'affirmer en coupant le poing, puis la tête, à Pleignier, à Carbonneau et à Tolleron. Le prince de Talleyrand, grand chambellan, et l'abbé Louis, ministre désigné des finances, se regardaient en riant du rire de deux augures; tous deux avaient célébré, le 14 juillet 1790, la messe de la Fédération au Champ de Mars; Talleyrand l'avait dite comme évêque, Louis l'avait servie comme diacre.
フランスにはなおプロシア人がいた。ドゥラロー氏が頭角を現わしていた。プレーニエやカルボンノーやトレロンの手を切り次に首を切って、正統王位の権は堅固になっていた。侍従長のタレーラン公と大蔵大臣に就任したルイ師とは、互いに顔を見合って占考官のような笑みを交わしていた。二人は一七九〇年七月十四日に練兵場で同盟大会フェデラシオン弥撒ミサ祭をあげたのであるが、タレーランは司教として弥撒をとなえ、ルイは補祭としてそれに働いたのだった。 フランスにはまだプロシャ軍が駐屯していた。ドラロ氏は名士だった。正統王朝派は、プレーニエ、カルボノー、トルロンなど謀反者どもの手首を切り、ついで首を切って、乗り出してきたところだ。侍従タレーラン公と、大蔵大臣に指名された司祭のルイとは、二人とも照れ笑いをかわしながら、顔を見あわせていた。二人は、一七九〇年七月十四日には、シャン・ド・マルス(訳注 三月広場)国民連合フエデラシヨンのミサをあげた。タレーランは司教として、ルイは助祭として、ミサを行なったのである。 フランスにはまだプロイセン軍が駐屯していた。ドラロ氏(反革命派のひとり)は名士だった。正統王朝派はプレニエ、カルボノー、トルロン(三人とも秘密結社「愛国者同盟」のメンバーで、大逆罪のかどにより処刑された)の手を、ついで首を切りおとして足場を固めたところであった。侍従長タレーラン公と大蔵大臣に任命された大修道院長ルイは、まるでふたりの占い師のようにたがいに顔を見あわせながら笑っていた(民衆をたぶらかすいんちきな占い師みたいな人間同士が顔を見合わせて笑っている、という意味。キケロ『占いについて』二-二四、『神々の本性について』一-二十六参照)。ふたりとも、かつて一七九〇年にシャン・ド・マルス(パリの有名な練兵場だった)で国民連合の祭典(バスチーユ占拠一周年を記念してひらかれた)を執行したのである。タレーランは司教としてミサをとなえ、ルイは助祭をつとめたのであった。 フランスにはまだプロシア軍が駐屯していた[一八一五年のワーテルローの戦いでナポレオンを破った同盟諸国イギリス、オーストリア、ロシアなどがパリを占領、特にプロシア軍の姿が目立った]。ドラロ氏[熱烈な王政主義者で雑誌《論争》の主幹]が名士だった。正統王朝派がプレニエ、カルボノー、トルロン[三名とも《愛国者同盟》のメンバーで、一八一六年不敬罪で処刑]らの手首を切り、ついで首を切って地歩を固めたところだった。侍従頭のタレイラン公[十八—九世紀の名高い政治家・外交官]と大蔵大臣に任命されたルイ師[タレイランの盟友の政治家]とは、照れ笑いを浮かべながら顔を見合わせていたが、それはこのいかさま師同士が一七九〇年七月十四日、シャン・ド・マルス広場で、国民連合の祭典[バスティーユ占拠の一周年記念日]を執行し、タレイランは司教として、ルイは助祭としてミサを唱えていたからである。
豊島与志雄 訳 (岩波文庫)佐藤朔 訳 (新潮文庫)辻昶 訳 (講談社文庫)西永良成 訳 (ちくま文庫)
«Monsieur Thénardier,
«Vous remettrez Cosette à la personne.
«On vous payera toutes les petites choses.
«J'ai l'honneur de vous saluer avec considération.
«Fantine.»
 テナルディエ殿
この人へコゼットを御渡し下されたく候。
種々の入費は皆支払うべく候。
謹みて御挨拶申し上げ候。
ファンティーヌ
 テナルディエ様
この人にコゼットをお渡しください。
細かい費用は全部お払いいたします。
尊敬をもってあなたに挨拶を送ります。
ファンチーヌ
《テナルディエさま。
コゼットをこのかたにお渡しください。
こまかい払いは全部このかたがいたします。
どうぞよろしくお願いいたします。
ファンチーヌ》
《テナルディ様
 コゼットをこの方にお返しください。
 細かい費用は全部お支払いします。
 どうか宜しくお願いいたします。
ファンチーヌ》
豊島与志雄 訳 (岩波文庫)佐藤朔 訳 (新潮文庫)辻昶 訳 (講談社文庫)西永良成 訳 (ちくま文庫)
Javert était un caractère complet, ne laissant faire de pli ni à son devoir, ni à son uniforme; méthodique avec les scélérats, rigide avec les boutons de son habit.
Pour qu'il eût mal mis la boucle de son col, il fallait qu'il y eût en lui une de ces émotions qu'on pourrait appeler des tremblements de terre intérieurs.
 ジャヴェルは一徹な男であって、その義務にも服装にも一つのしわさえ許さなかった。悪人に対して規律正しいとともに、服のボタンに対しても厳正であった。
 カラーの留め金を乱している所を見ると、内心の地震とも称し得べき感情の一つが、彼のうちにあったに違いなかった。
 ジャヴェールは、几帳面な性格の男で、その義務にも服装にも一つの皺さえ我慢できなかった。極悪人にたいして規則正しいとともに、自分の衣服のボタンにたいしても几帳面だった。カラーの留め金が乱れているからには、内心の地震ともいうべき感情が、彼のうちにあったにちがいない。  ジャヴェールはとてもきちんとした性格の男で、つとめにも、制服にも、しみひとつつけなかった。極悪人には規律ずくめで、服のボタンにはきちょうめんだった。
 カラーのとめ金がずれていたからには、心の地震とでもいえるような一種の感情が胸のなかに起こっていたにちがいない。
 ジャヴェールは几帳面な性格で、じぶんの職務にも制服にも皺ひとつ残さなかった。極悪人には強硬一本槍なら、衣服のボタンひとつもゆるがせにしなかった。彼がカラーの留め金をずらしたからには、内面の地震と呼んでもいいような、なにかよほどの動揺が心中に生じたにちがいなかった。
豊島与志雄 訳 (岩波文庫)佐藤朔 訳 (新潮文庫)辻昶 訳 (講談社文庫)西永良成 訳 (ちくま文庫)
Il la protégea et elle l'affermit. Grâce à lui, elle put marcher dans la vie; grâce à elle, il put continuer dans la vertu. Il fut le soutien de cet enfant et cet enfant fut son point d'appui. O mystère insondable et divin des équilibres de la destinée!
が彼はコゼットを保護するとともに、コゼットは彼を強固にした。彼によって、彼女は人生のうちに進むことができた。そして彼女によって、彼は徳の道を続けることができた。彼は少女の柱であった、そして少女は彼の杖であった。実に運命の均衡の測るべからざる犯すべからざる神秘さよ! 彼は、彼女を守り、彼女は、彼を強くした。彼のおかげで、彼女は人生を歩むことができた。彼女のおかげで、彼は徳の道をつづけることができた。彼はこの小娘の支えであったし、この小娘が、彼の拠りどころとなった。おお、運命の均衡の神々しい、測りがたい神秘よ! 彼はコゼットを守ったが、コゼットは彼の心をしっかりさせた。彼のおかげで、コゼットは人間らしい生活を送れるようになった。コゼットのおかげで、彼は徳を守りつづけていくことができた。彼は、この子のささえだったし、この子は彼の拠り所だった。ああ、運命がとらせるつり合いの、神々しく測りしれぬ神秘よ! 彼は彼女を保護し、彼女は彼を強固にした。彼のおかげで、彼女は人生を歩めるようになった。彼女のおかげで、彼は美徳の道を進みつづけることができた。彼はその子の支柱であり、その子は彼の拠り所になったのだ。
 ああ、運命の釣り合いの、なんとも計り知れぬ崇高な神秘よ!
豊島与志雄 訳 (岩波文庫)佐藤朔 訳 (新潮文庫)辻昶 訳 (講談社文庫)西永良成 訳 (ちくま文庫)
Le gamin aime la ville, il aime aussi la solitude, ayant du sage en lui. Urbis amator, comme Fuscus; ruris amator, comme Flaccus.
 浮浪少年は、心のうちに知恵を持っていて、町を愛しまた静寂を愛する。フスクスのように町の愛人であり、フラックスのように田野の愛人である。  浮浪児は、心に賢者を秘めているので、パリを愛し、孤独を愛する。フスクスのように「都会を愛する者」であり、フラックス(訳注 フスクスもフラックスもラテンの詩人)のように「田園を愛する者」である。  浮浪児は賢者の素質があるので、まちを愛し、孤独を愛する。フスクスのように《都会を愛する人》(ラテン語)でもあり、フラックスのように《いなかを愛する人》(ラテン語)でもある(フスクス・アリスティウスおよびクイントゥス・ホラティウス・フラックスはともに古代ローマの詩人。ホラティウス『書簡詩』)  浮浪者は都市が好きだが、孤独もまた好み、内心に賢者めいたところがある。フスクスのように「都会ヲ愛スル人」であり、フラックスのように「田園ヲ愛スル人」なのである。[ホラティウスの『書簡集』の一節より]
豊島与志雄 訳 (岩波文庫)佐藤朔 訳 (新潮文庫)辻昶 訳 (講談社文庫)西永良成 訳 (ちくま文庫)
Combeferre vivait plus qu'Enjolras de la vie de tout le monde. S'il eût été donné à ces deux jeunes hommes d'arriver jusqu'à l'histoire, l'un eût été le juste, l'autre eût été le sage. Enjolras était plus viril, Combeferre était plus humain. Homo et Vir, c'était bien là en effet leur nuance. Combeferre était doux comme Enjolras était sévère, par blancheur naturelle.
コンブフェールはアンジョーラよりも多くあらゆる世界の生活に生きていた。もしこのふたりの青年にして歴史に現われることが許されたならば、一方は正しき人となり、一方は賢き人となったであろう。アンジョーラはより男性的であり、コンブフェールはより人間的であった。人間と男性、実際そこに彼らの色合いの差異があった。天性の純白さによって、アンジョーラがきびしかったごとくコンブフェールは優しかった。 コンブフェールの方がアンジョルラスよりも、万人向きの生活を送っていた。この二人の青年が歴史に残ることができたとしたら、一方は正義派、他方は賢人となっただろう。アンジョルラスの方が男性的で、コンブフェールの方が人間的だった。人間ホモ男性ヴイル、たしかに二人の間にはそういったニュアンスの差があった。天性の純潔さによって、アンジョルラスがきびしいように、コンブフェールは優しかった。 コンブフェールはアンジョルラスよりも世間なみの生活をしていた。このふたりの青年が歴史に名をとどめることができたら、一方は正義の人、もう一方は賢人といわれただろう。アンジョルラスのほうは男性的で、コンブフェールは人間的だった。「人間」(ラテン語)と「男性」(ラテン語)、これこそまさしくふたりのあいだの微妙な違いだった。どちらも清らかに生まれついていたが、アンジョルラスは厳しく、コンブフェールはおだやかだった。 コンブフェールはアンジョルラスよりも世間の経験が豊かだった。もしこのふたりの青年が歴史に名を残すことがあったとしたら、アンジョルラスは義人、コンブフェールは賢人とされたことだろう。アンジョルラスは男性的で、コンブフェールは人間的だった。人間ホモ男性ヴイル。たしかにこのふたりにはそのようなニュアンスの違いがあった。アンジョルラスがもって生まれた純潔さによって厳格なように、コンブフェールは穏和だった。
豊島与志雄 訳 (岩波文庫)佐藤朔 訳 (新潮文庫)辻昶 訳 (講談社文庫)西永良成 訳 (ちくま文庫)
Le marquis d'Avaray, que Louis XVIII fit duc pour l'avoir aidé à monter dans un cabriolet de place le jour où il émigra, racontait qu'en 1814, à son retour en France, comme le roi débarquait à Calais, un homme lui présenta un placet.—Que demandez-vous? dit le roi.—Sire, un bureau de poste.—Comment vous appelez-vous?—L'Aigle.
Le roi fronça le sourcil, regarda la signature du placet et vit le nom écrit ainsi: Lesgle. Cette orthographe peu bonapartiste toucha le roi et il commença à sourire. Sire, reprit l'homme au placet, j'ai pour ancêtre un valet de chiens, surnommé Lesgueules. Ce surnom a fait mon nom. Je m'appelle Lesgueules, par contraction Lesgle, et par corruption L'Aigle.—Ceci fit que le roi acheva son sourire. Plus tard il donna à l'homme le bureau de poste de Meaux, exprès ou par mégarde.
Le membre chauve du groupe était fils de ce Lesgle, ou Lègle, et signait Lègle (de Meaux). Ses camarades, pour abréger, l'appelaient Bossuet.
 ルイ十八世が国外に亡命せんとする日、それを辻馬車の中に助け入れたので公爵となされたアヴァレー侯爵が、次のような話をした。一八一四年、フランスに戻らんとして王がカレーに上陸した時、ひとりの男が王に請願書を差し出した。「何か望みなのか、」と王は言った。「陛下、郵便局が望みでござります。」「名は何という?」「レーグルと申します。」
 王は眉をひそめ、請願書の署名をながめ、レグルと書かれた名を見た。このいくらかボナパルト的でない綴字に(訳者注 レーグルとは鷲の意にしてナポレオンの紋章)王は心を動かされて、微笑を浮かべた。「陛下、」と請願書を差し出した男は言った、「私には、レグール(訳者注 顎の意)という綽名を持っていました犬番の先祖がありまして、その綽名が私の名前となったのであります。私はレグールと申します。それをつづめてレグル、また少しかえてレーグルと申すのであります。」それで王はほほえんでしまった。後に、故意にかあるいは偶然にか、王は彼にモーの郵便局を与えた。
 禿頭の会員は、実にこのレグルもしくはレーグルの息子で、レーグル(ド・モー)と署名していた。彼の仲間は、手軽なので彼をボシュエと呼んでいた。
 アヴァレー侯爵は、ルイ十八世が国外に亡命した日に、辻馬車に国王が乗るのを助けた功により公爵にしてもらった人だが、こんな話をしたものだ。一八一四年に、国王がフランスへの帰途カレーに上陸すると、一人の男が王に請願書を差出した。「何が望みか?」と王が言うと、「陛下、郵便局が望みでございます」「なんという名だね?」「レーグルでございます」
 国王は眉をしかめて、請願書の署名をながめると、レグル Lesgle と書かれた名前を見た。このあまりボナパルト式でない綴りに国王は感動して、ほほえみかけた(訳注 綴りがレーグル L'Aigle ならば鷲と同じ綴りになる。鷲はナポレオンの紋章)。「陛下」と請願書の男がつづけた。「わたしの先祖に、犬番がおりまして、レグールという綽名でございました。その綽名がわたしの名前となりました。わたしはレグールと申しますが、ちぢめてレグル、転じてレーグルと申します」。それで、国王はついに顔をほころばせた。のちに、特別の計らいか、それともうっかりしたためか、国王はこの男にモーの郵便局を与えた。
 禿頭の会員というのは、そのレグルあるいはレーグルの息子で、レーグル(ド・モー)と署名していた。彼の仲間は、手軽に、ボシュエと呼んでいた。
 ルイ十八世が亡命した日に、この王が辻馬車に乗るのに手をかしたというので、のちに公爵にしてもらったアヴァレー侯爵は、よくこんな話をした。一八一四年に王が帰国してカレーに上陸すると、ひとりの男が請願書をさしだした。「なにを望むのか?」と王は言った。「陛下、郵便局を」「名まえはなんという?」「レーグル(レーグル L'Aigleはワシの意味でナポレオンの旗印をさす)と申します」
 王は眉をひそめ、請願書の署名に目をやって、レグル Lesgle と名が書いてあるのを見た。王はボナパルトにはほとんど縁のないこのつづりに心をうごかされ、顔をほころばせはじめた。「陛下」と請願書の男はつづけた。「わたくしの先祖にお犬番を勤めていたものがおりまして、あだ名をレーグル Lesgueules(肉食動物の口の意味)と申しました。このあだ名がわたしの名まえになったのでございます。わたしの名はレーグル、つづめてレグル Lesgle なまってレーグル L'Aigle とも申します」これで王はとうとう顔をほころばせた。のちに、王はとくに計らってか、それともついうっかりしてか、この男にモーの郵便局を与えた。
 このグループのはげ頭の会員というのは、このレグルまたはレーグルの息子で、レーグル(ド・モー)と署名していた。なかまは簡単にボシュエ(十七世紀のモーの司教ボシュエはレーグル・ド・モーというあだ名をもっていた)と呼んでいた。
 アヴァレー侯爵は、ルイ十八世が[大革命時に]国外に亡命した日に、辻馬車に乗るのを助けた功により公爵にしてもらった人物だが、よくこんな話をしたものだた。一八一四年、フランスへの帰国にさいして、国王がカレーに上陸すると、ひとりの男が請願書を提出した。「なにが望みか?」と国王は尋ねた。「陛下、郵便局でございます」「名はなんと申す?」「レーグル L'Aigle と申します」
 国王は眉をひそめ、請願書をながめると、レグル Lesgle と書かれている名前が見えた。国王はこのボナパルト風ではない綴りに心をうごかされ、思わず微笑した[前者の Aigle は鷲の意で、ナポレオンの紋章]。「陛下」と請願書の男がつづけた。「わたくしの先祖は犬の番人でして、レグール[動物の口の意]という渾名でございました。わたくしの名前はレグール、これをつづめてレグル、卑しめてレーグルでございます」ここで国王は、ついに顔をほころばせた。のちになって、特別の計らいか、それともなんらかの手違いか、その男にモー[パリ東方五十キロあまりの町]の郵便局があたえられた。
 このグループの禿頭の男はそのレグルもしくはレーグルの息子で、レーグル(ド・モー)と署名していた。仲間たちは手短にボシュエ[前出。聖職者・雄弁家。一六八一年からモーの大司教を務めた]
豊島与志雄 訳 (岩波文庫)佐藤朔 訳 (新潮文庫)辻昶 訳 (講談社文庫)西永良成 訳 (ちくま文庫)
Ce mouchoir était marqué des lettres U. F.; Marius ne savait rien de cette belle enfant, ni sa famille, ni son nom, ni sa demeure; ces deux lettres étaient la première chose d'elle qu'il saisissait, adorables initiales sur lesquelles il commença tout de suite à construire son échafaudage. U était évidemment le prénom. Ursule! pensa-t-il, quel délicieux nom! Il baisa le mouchoir, l'aspira, le mit sur son cœur, sur sa chair, pendant le jour, et la nuit sous ses lèvres pour s'endormir.
—J'y sens toute son âme! s'écriait-il.
Ce mouchoir était au vieux monsieur qui l'avait tout bonnement laissé tomber de sa poche.
ハンカチにはU・Fという二字がついていた。マリユスはその美しい娘については何にも知るところがなかった、その家がらも名前も住所も知らなかった。そしてその二字は彼女についてつかみ得た最初のものだった。大事な頭文字で、彼はすぐその上に楼閣を築きはじめた。Uというのはきっと呼び名に違いなかった。彼は考えた、「ユルスュールかな、何といういい名だろう!」彼はそのハンカチに脣をつけ、それをかぎ、昼は胸の肌につけ、夜は脣にあてて眠った。
「彼女の魂をこの中に感ずる!」と彼は叫んだ。
 しかるにそのハンカチは実は老紳士ので、たまたまポケットから落としたのだった。
そのハンカチにはU・Fの字が読まれた。マリユスはあの美しい娘のことは、家族も名前も、住所も、何も知らなかった。この二字が彼女についてつかんだ最初の手がかりだった。すばらしい頭文字だった。彼はすぐに推測を積み重ねてみた。Uは確かに呼び名の方だ。「ユルシュールだ!」と考えた。「なんて美しい名前だろう!」ハンカチに口づけし、香りをかぎ、昼は胸にあて、肌につけ、夜は唇にあてて、眠った。
「あの人の魂の香りだ!」と彼は叫んだ。
 そのハンカチは老人のもので、うっかりポケットから落したのだった。
ハンカチにはU・Fという印がついていた。マリユスは、あの美しい少女のことは、家族も、名まえも、住所も、なにも知らなかった。この二つの文字は、彼が娘についてつかんだ最初の手がかりだった。すばらしい頭文字だった。さっそくこれについていろんな推測をかさねはじめた。Uは明らかに洗礼名だ。《ユルシュールだ!》と思った。《なんて美しい名まえだろう》彼はハンカチに口づけし、香りをかぎ、昼は胸にあて、肌につけ、夜はくちびるの下に当てて眠った。
「あのひとの魂の香りがする!」と彼は叫んだ。
 このハンカチは老人のもので、ただポケットから落としたものだった。
そのハンカチにはU・Fという文字がしるされていた。マリユスはその美少女についても、家族についても、姓名についても、住所についても、なにも知らなかった。このふたつの文字だけが、彼女について彼がつかんだ最初の手がかりだった。なんとも可愛いイニシャルだった。彼は早速そのうえに足場を築きはじめた。——Uはもちろん洗礼名だ。ユルシュルだ! 彼はそのハンカチに口づけし、香りをかぎ、昼のあいだは胸や肌のうえに押しあて、夜になると唇に押しあてて眠った。
「彼女の魂の香りがたっぷり嗅げる!」と彼は声をあげた。
 そのハンカチは老紳士のもので、ただたんにそれをポケットから落としただけのことだった。
豊島与志雄 訳 (岩波文庫)佐藤朔 訳 (新潮文庫)辻昶 訳 (講談社文庫)西永良成 訳 (ちくま文庫)
—Toi, endoctriner des républicains! toi, réchauffer, au nom des principes, des cœurs refroidis!
—Pourquoi pas?
—Est-ce que tu peux être bon à quelque chose?
—Mais j'en ai la vague ambition, dit Grantaire.
—Tu ne crois à rien.
—Je crois à toi.
—Grantaire, veux-tu me rendre un service?
—Tous. Cirer tes bottes.
—Eh bien, ne te mêle pas de nos affaires. Cuve ton absinthe.
—Tu es un ingrat, Enjolras.
—Tu serais homme à aller barrière du Maine! tu en serais capable!
「君が共和派の者らを教育するって! 君が主義の名において冷えた魂をまた熱せさせるつもりか!」
「どうしていけないんだ。」
「君がいったい何かの役に立つことができるのか。」
「なに僕にも少しは野心があるさ。」とグランテールは言った。
「君は何の信念も持たないじゃないか。」
「君を信仰してるよ。」
「グランテール、君は僕の用をしてくれるか。」
「何でもやる。靴をみがいてもいい。」
「よろしい、それじゃ僕らの仕事に口を出さないでくれ。少し眠ってアブサントの酔いでもさますがいい。」
「君は失敬だ、アンジョーラ。」
「君がメーヌ市門へ行けるかね。君にそれができるかね。」
「君が、共和主義者を教育するんだって! 君が、主義の名において、冷めかけた心をかきたてるのか!」
「どうしていけないんだい?」
「いったい君がなんかの役に立つのか?」
「僕だって、なんとなく役に立ちたいと願う気持はあるさ」
「君は何も信じないじゃないか」
「君を信じているさ」
「グランテール、一つ頼まれてくれるか?」
「なんでもやるよ。君の靴をみがいてもいい」
「それじゃあ、僕たちのことに口出ししないでくれ。アブサンの酔いでもさましたまえ」
「ひどい男だな、アンジョルラス」
「君がメーヌ市門へ行けるか! 君にできるかい!」
「きみが、共和主義者たちを教育するんだって! きみが、主義の名において、さめた心に熱を吹きこむんだって!」
「なんでいけないんだ?」
「きみがなにかの役にたてるかね?」
「でも、なんとなくそうしたい気持ちなんだ」とグランテールが言った。
「きみはなにも信じていない」
「きみを信じているよ」
「グランテール、ぼくに頼まれてくれないか?」
「なんなりと。きみの靴をみがいてもいい」
「じゃ、ぼくたちの仕事に首をつっこまないでいてくれ。アブサンの酔いでもさましてくれ」
「きみは恩知らずなやつだ、アンジョルラス」
「きみがメーヌ城門へ行ける男か! そんなことができるもんか!」
「おまえが共和主義者たちに指図をするだって! おまえが主義、主張を持ちだして、冷めた心を暖めるだって?」
「どこが悪い?」
「いったい、おまえがなんかの役に立てるのか?」
「そう言うけど、おれだって気持ちがむずむずしているんだ」とグランテールが言った。
「おまえはなにも信じちゃいないんだろ」
「あんたを信じているよ」
「グランテール、おまえはおれの役に立ちたいというのか?」
「なんでもかまわない。靴を磨いたっていいよ」
「それなら、おれたちの仕事に口を出さないでくれ。アブサンの酔いでも覚ましていろ」
「あんたは血も涙もない男だよ、アンジョルラス」
「おまえはメーヌ市門なんかに行ける男か! そんなことができるやつか!」
豊島与志雄 訳 (岩波文庫)佐藤朔 訳 (新潮文庫)辻昶 訳 (講談社文庫)西永良成 訳 (ちくま文庫)
—Voilà décidément un fort serin, disait Gavroche.
Puis, pensif, il grommelait entre ses dents:
—C'est égal, si j'avais des mômes, je les serrerais mieux que ça.
「なるほどまだ嘴が黄色いんだな。」とガヴローシュは言った。
 それからふと考え込んで、口の中でつぶやいた。
「だが、俺にもし子供(がき)でもあったら、もっと大事にするかも知れねえ。」
「なるほど、全くの赤ん坊だ」とガヴローシュは言った。
 ついで、ふと物思いに沈んで、口の中でつぶやいた。
「まあ、いいさ、もし俺にもちびがいたら、もっとしっかり抱きしめてやるんだが」
「こりゃまったくのねんねだ」とガヴローシュが言った。
 それから考えこんで、口のなかでつぶやいた。
「まあ、いいや。おれにちびどもがいたら、もっとしっかりだきしめてやるんだが」
「こいつめ、まったくのおチビさんだな」とガヴローシュは言った。
 それから、ふと考えこんで、口のなかでつぶやいた。
「まあ、どっちだっていいさ。もしおれにガキがいりゃ、ちゃんと手塩にかけてやるんだがな」
豊島与志雄 訳 (岩波文庫)佐藤朔 訳 (新潮文庫)辻昶 訳 (講談社文庫)西永良成 訳 (ちくま文庫)
Quand on est à la fin de la vie, mourir, cela veut dire partir; quand on est au commencement, partir, cela veut dire mourir.
 生涯の終わりにおいては、死ぬことはすなわち出立することである。生涯の初めにおいては、出立することはすなわち死ぬことである。
 人生の終りで、死ぬとは出発することだ。人生の初めでは、出発するとは死ぬことだ。  人生の終わりでは、死ぬとは出ていくことだが、人生の始まりでは、出ていくとは死ぬことを意味する。  ひとが人生の終わりにあるときには、死は出発を意味し、人生の始まりにあるときには、出発は死を意味する。
豊島与志雄 訳 (岩波文庫)佐藤朔 訳 (新潮文庫)辻昶 訳 (講談社文庫)西永良成 訳 (ちくま文庫)
—Qui êtes-vous?
À cette question brusque, l'homme eut un soubresaut. Il plongea son regard jusqu'au fond de la prunelle candide d'Enjolras et parut y saisir sa pensée. Il sourit d'un sourire qui était tout ce qu'on peut voir au monde de plus dédaigneux, de plus énergique et de plus résolu, et répondit avec une gravité hautaine:
—Je vois ce que c'est.... Eh bien oui!
—Vous êtes mouchard?
—Je suis agent de l'autorité.
「君はだれだ?」
 その突然の問いに、男ははっとして顔を上げた。彼はアンジョーラの澄み切った瞳の奥をのぞき込んで、その考えを読み取ったらしかった。そして世に最も人を見下げた力強い決然たる微笑を浮かべて、昂然としたいかめしい調子で答えた。
「わかってる……そのとおりだ!」
「君は間諜なのか。」
「政府の役人だ。」
「あんたは誰です?」
 いきなりこう質問されて、男はぎくりとした。アンジョルラスの澄んだ瞳の底までじっと見つめ、その考えをつかんだ様子だった。彼は世にも横柄で、力強い、決然とした微笑を浮べて、尊大に重々しく答えた。
「わかっている。そのとおりだよ!」
「スパイだね?」
「その筋の者だ」
「きみはだれだ?」
 だしぬけにこうきかれて男はびくっとした。彼はアンジョルラスの純真なひとみの底までじっとのぞきこんだが、相手の考えをつかんだようだった。彼は、世にも侮蔑的で、力強く、断固とした微笑を浮かべながら、尊大な重々しいようすで答えた。
「わかった……そのとおりだ!」
「スパイだな?」
「そのすじの者だ」
「あなたはだれですか?」
 だしぬけにそう訊かれて、男はぎくりとした。アンジョルラスの純真な瞳の奥底までのぞきこみ、相手の考えを見抜いたようだった。男はいかにも人を食ったような、力強い、決然とした微笑を浮かべ、尊大な重々しい口調で答えた。
「分かったか……その通りだよ!」
「密偵だな」
「その筋の者だ」
豊島与志雄 訳 (岩波文庫)佐藤朔 訳 (新潮文庫)辻昶 訳 (講談社文庫)西永良成 訳 (ちくま文庫)
—Vous serez fusillé deux minutes avant que la barricade soit prise.
Javert répliqua de son accent le plus impérieux:
—Pourquoi pas tout de suite?
—Nous ménageons la poudre.
—Alors finissez-en d'un coup de couteau.
—Mouchard, dit le bel Enjolras, nous sommes des juges et non des assassins.
「防寨が陥る十分前に君を銃殺してやる。」
 ジャヴェルはその最も傲然たる調子で言い返した。
「なぜすぐにしない?」
「火薬を倹約するためだ。」
「では刃物でやったらどうだ。」
「間諜、」と麗わしいアンジョーラは言った、「われわれは審判者だ、屠殺者ではない。」
「バリケードが占領される二分前に、あんたは銃殺だ」
 ジャヴェールはきわめて傲然とした口調で答えた。
「どうしてすぐにやらないんだ?」
「火薬の倹約だ」
「それなら短刀で片づけてくれ」
「スパイ」と美青年のアンジョルラスは言った。「僕たちは裁判官だが、人殺しじゃない」
「バリケードが占領される二分まえにきみを銃殺する」
 ジャヴェールはもちまえのとても横柄な口調で言いかえした。
「なぜすぐにやらんのだ?」
「火薬を節約するんだ」
「それならナイフでかたづけてくれ」
「スパイ」と美男のアンジョルラスが言った。「われわれは裁判官だ。人殺しじゃない」
「あんたはバリケードが占拠される二分まえに銃殺されるだろう」
 ジャヴェールは持ち前のきっぱりとした口調で応じた。
「なんで直ちにやらないのか?」
「われわれは火薬を節約している」
「それなら、ナイフで片づけてくれ」
「密偵」と美男のアンジョルラスは言った。「われわれは裁判官だ。人殺しじゃない」
豊島与志雄 訳 (岩波文庫)佐藤朔 訳 (新潮文庫)辻昶 訳 (講談社文庫)西永良成 訳 (ちくま文庫)
La guerre civile? qu'est-ce à dire? Est-ce qu'il y a une guerre étrangère? Est-ce que toute guerre entre hommes n'est pas la guerre entre frères? La guerre ne se qualifie que par son but. Il n'y a ni guerre étrangère, ni guerre civile; il n'y a que la guerre injuste et la guerre juste.
 内乱? それはいったい何の意味であるか。外乱というものが存在するか。すべて人間間のあらゆる戦争は、皆同胞間の戦いではないか。戦いはただその目的によってのみ区別さるべきである。世には外乱もなく内乱もない。ただ不正の戦いと正義の戦いとがあるのみである。  内乱? これにどんな意味があるか? 外乱というものがあるだろうか? 人間同士の戦争はどれも兄弟同士の戦争ではないか? 戦争の性格を決めるのは目的だけだ。外乱も、内乱もなく、不正な戦争と正義の戦争があるだけだ。  内乱? それはどういうことか? 外戦というものがあるのだろうか? 人間同士の戦争はひとつのこらず兄弟同士の戦争ではなかろうか? 戦争の性質が決まるのは、その目的によってだけだ。外戦というものも内乱というものもない。あるのは不正な戦争と正しい戦争だけだ。  内戦? それはどういうことか? では、外戦というものがあるというのか? 人間同士の戦争というのはどれもこれも、兄弟同士の戦争ではないのか? 戦争はその目的によってしか規定されない。外戦も内戦もなく、ただ正しい戦争と正しくない戦争があるだけなのだ。
豊島与志雄 訳 (岩波文庫)佐藤朔 訳 (新潮文庫)辻昶 訳 (講談社文庫)西永良成 訳 (ちくま文庫)
Il y eut encore une pause, comme si des deux côtés on attendait. Tout à coup, du fond de cette ombre, une voix, d'autant plus sinistre qu'on ne voyait personne, et qu'il semblait que c'était l'obscurité elle-même qui parlait, cria:
—Qui vive?
En même temps on entendit le cliquetis des fusils qui s'abattent.
Enjolras répondit d'un accent vibrant et altier:
—Révolution française.
 なお少しの猶予があった。両方とも待ってるがようだった。と突然、その闇の奥から、一つの声が叫んだ。それを発した人の姿が見えないだけにいっそうすごい声で、暗黒自身が口をきいたのかと思われた。
「何の味方か?」
 と同時に、銃をおろす音が聞こえた。
 アンジョーラは鳴り響く傲然たる調子で答えた。
「フランス革命。」
 さらに一呼吸、双方、相手の出方を待っているようだった。突然、闇の奥から、一つの声が叫んだ。声の主が見えないだけに、一層不気味で、闇そのものが話しているのではないかと思われた。
「誰か?」
 同時に銃を構えるかちかちいう音が聞えた。
 アンジョルラスは、ひびきわたる傲然とした口調で答えた。
「フランス大革命!」
 まるで両方で相手を待ってでもいるように、なおちょっとのあいだ休止がつづいた。とつぜん、この暗闇の底から叫び声がした。人の姿が見えないだけによけい無気味で、まるで闇そのものが口をきいて叫んだみたいだった。
「だれか?」
 それと同時に、ガチャガチャっと銃をかまえる音が聞こえた。
 アンジョルラスはあたりにひびきわたる傲然とした口調で答えた。
「フランス革命だ」
 双方とも相手の出方をうかがっているのか、しばしの休止があった。突然、その闇の奥から、姿は見えず、暗闇そのものがしゃべっていると思われるだけに、なおさら陰気に聞こえる声が叫んだ。
「だれか!」
 と同時に、銃を構えるカチカチという音が聞こえた。
 アンジョルラスは朗々と響きわたるような傲岸な口調で言った。
「フランス革命だ」
豊島与志雄 訳 (岩波文庫)佐藤朔 訳 (新潮文庫)辻昶 訳 (講談社文庫)西永良成 訳 (ちくま文庫)
Joly, voyant un chat rôder sur une gouttière, en extrayait la philosophie.
—Qu'est-ce que le chat? s'écriait-il. C'est un correctif. Le bon Dieu, ayant fait la souris, a dit: Tiens, j'ai fait une bêtise. Et il a fait le chat. Le chat c'est l'erratum de la souris. La souris, plus le chat, c'est l'épreuve revue et corrigée de la création.
 ジョリーは樋の上をぶらついてる一匹の猫を見て、それから哲学を引き出した。
「猫とはいかなるものか知ってるか。」と彼は叫んだ。「猫は一つの矯正物だ。神様は鼠をこしらえてみて、やあこいつはしくじったと言って、それから猫をこしらえた。猫は鼠の正誤表だ。鼠プラス猫、それがすなわち天地創造の校正なんだ。」
 ジョリーは、一匹の猫が、樋の上を歩きまわっているのを見つけ、それから哲学をひき出した。
「猫とは何か?」と彼は叫んだ。「それは訂正である。神は、鼠をつくってから言った、おや、へまをやったぞ。そこで神は猫をつくったのさ。猫は鼠の更正である。鼠プラス猫、それで創造の校了というわけさ」
 ジョリは、ネコが樋の上をうろついているのを見て、そこから哲学をひきだした。
「ネコとはなにか?」と彼は叫んだ。「それは矯正物だ。神さまは、ネズミをつくったあとでこう言った。『しまった、ばかなことをしたわい』そして、こんどはネコをつくったんだ。ネコはネズミの誤植訂正だ。ネズミ・プラス・ネコは、天地創造の、校正ずみのゲラ刷りだ」
 ジョリーは一匹の猫が樋をうろついているのを見てこんな哲学を引きだして、「猫とはなにか?」と声をあげた。「それはひとつの訂正だ。神さまは鼠を創ったあとでこう言った。『ありゃまあ、わしとしたことがなんたるヘマをやらかしたもんじゃ』そこで猫を創った。猫は鼠の誤植訂正というわけだ。鼠プラス猫は、天地創造の校正済みのゲラ刷りなんだよ」
豊島与志雄 訳 (岩波文庫)佐藤朔 訳 (新潮文庫)辻昶 訳 (講談社文庫)西永良成 訳 (ちくま文庫)
Quand la porte fut barricadée, Enjolras dit aux autres:
—Vendons-nous cher.
Puis il s'approcha de la table où étaient étendus Mabeuf et Gavroche. On voyait sous le drap noir deux formes droites et rigides, l'une grande, l'autre petite, et les deux visages se dessinaient vaguement sous les plis froids du suaire. Une main sortait de dessous le linceul et pendait vers la terre. C'était celle du vieillard.
Enjolras se pencha et baisa cette main vénérable, de même que la veille il avait baisé le front.
C'étaient les deux seuls baisers qu'il eût donnés dans sa vie.
 戸の防備ができた時、アンジョーラは他の者らに言った。
「生命を高価に売りつけてやろうよ。」
 それから彼はマブーフとガヴローシュが横たわってるテーブルに近づいた。喪布の下には、まっすぐな硬ばった姿が大きいのと小さいのと二つ見えており、二つの顔は経帷子の冷ややかな襞の下にぼんやり浮き出していた。喪布の下から一本の手が出て下にたれていた。それは老人の手であった。
 アンジョーラは身をかがめて、前日その額に脣をあてたように、その尊むべき手に脣をあてた。
 それは彼が生涯のうちにした唯一の二度の脣づけだった。
 ドアが固くしまると、アンジョルラスは仲間に言った。
「命を高く売りつけようぜ」
 それから彼はマブーフとガヴローシュの横たわっているテーブルに近づいた。黒い布の下に、まっすぐ硬直した、大小二つの姿が見えた。二つの顔が経帷子の冷たい襞の下にぼんやり浮き出ていた。一本の手が、喪布の下から出て、地面の方に垂れていた。それは老人の手だった。
 アンジョルラスは、昨日その額に口づけしたように、かがみこんでその尊い手に口づけした。それが彼の生涯ただ二度の口づけだった。
 戸がしめられると、アンジョルラスはみんなに言った。
「思いきりやっつけてから死のうぜ」
 それから、彼はマブーフとガヴローシュが横たわっているテーブルに近づいた。黒布の下に一つは大きく一つは小さい、二つの人間のかたちがまっすぐにつっぱっているのが見えた。二つの顔はこの経帷子の冷ややかなひだの下にぼんやりと輪郭を見せていた。手が一本、経帷子の下から出て、床のほうにたれさがっていた。老人の手だった。
 アンジョルラスは、まえの日その額にキスしたのとおなじように、身をかがめてその尊い手にキスをした。
 これは彼が一生のうちにした、たった二回のキスだった。
 戸が塞がれると、アンジョルラスは他の者たちに言った。
「おれたちを高く売りつけてやろうぜ」
 それから彼は、マブーフとガヴローシュが横たわっているテーブルに近づいた。黒布のしたには、ひとつは大きく、もうひとつは小さな、ふたつの硬直して真っ直ぐの人体の形が見えた。そしてふたつの顔がこの経帷子の冷ややかな輪郭を見せていた。一本の手が屍衣のしたからはみ出して、床のほうに垂れさがっていた。老人の手だった。
 アンジョルラスは身をかがめ、前日額にしたのと同じように、その尊敬すべき手に口づけした。それは彼が生涯にあたえた、たったふたつの口づけだった。
豊島与志雄 訳 (岩波文庫)佐藤朔 訳 (新潮文庫)辻昶 訳 (講談社文庫)西永良成 訳 (ちくま文庫)
—Vive la République! J'en suis.
Grantaire s'était levé.
L'immense lueur de tout le combat qu'il avait manqué, et dont il n'avait pas été, apparut dans le regard éclatant de l'ivrogne transfiguré.
Il répéta: Vive la République! traversa la salle d'un pas ferme, et alla se placer devant les fusils debout près d'Enjolras.
—Faites-en deux d'un coup, dit-il.
Et, se tournant vers Enjolras avec douceur, il lui dit:
—Permets-tu?
Enjolras lui serra la main en souriant.
Ce sourire n'était pas achevé que la détonation éclata.
Enjolras, traversé de huit coups de feu, resta adossé au mur comme si les balles l'y eussent cloué. Seulement il pencha la tête.
Grantaire, foudroyé, s'abattit à ses pieds.
「共和万歳! 吾輩もそのひとりだ。」
 グランテールは立ち上がっていた。
 参加しそこなって仲間にはいることができなかった全戦闘の燦然たる光は、様子を変えたこの酔漢の輝く目の中に現われた。
 彼は「共和万歳!」と繰り返し、しっかりした足取りで室を横ぎり、アンジョーラの傍に立って銃口の前に身を置いた。
「一打ちでわれわれふたりを倒してみろ。」と彼は言った。
 そして静かにアンジョーラの方を向いて言った。
「承知してくれるか。」
 アンジョーラは微笑しながら彼の手を握った。
 その微笑が終わらぬうちに、発射の音が響いた。
 アンジョーラは八発の弾に貫かれ、あたかも弾で釘付けにされたかのように壁によりかかったままだった。ただ頭をたれた。
 グランテールは雷に打たれたようになって、その足下に倒れた。
「共和国万歳! 俺も仲間だ」
 グランテールは立ち上がった。
 時を失して、参加できなかった全戦闘の巨大な閃きが、この真顔になった酔漢の輝く眼差しの中にあらわれた。
 彼は「共和国万歳!」を繰返し、しっかりした足どりで部屋を横切り、銃の前のアンジョルラスのそばに立った。
「二人を一発でやってくれ」と彼は言った。そしてアンジョルラスに優しく向き直って言った。
「許してくれるかい?」
 アンジョルラスはほほえんで彼の手を握った。
 その微笑が終らぬうちに、銃声がとどろいた。
 アンジョルラスは、八発の銃弾に貫かれ、銃弾に釘づけにされたように、壁によりかかったきり、ただ頭を垂れただけだった。グランテールは、雷に打たれたように、足もとに倒れた。
「共和国ばんざい! おれも仲間だぞ」
 グランテールはもう立ちあがっていた。
 うっかりしていて参加しなかったあの戦闘全体の巨大な閃光が、しらふになった酔っぱらいのきらきらひかるまなざしのなかに現われた。
 彼は「共和国ばんざい!」とくりかえし、しっかりした足どりで広間を横ぎり、アンジョルラスのそばまでいって、銃口の前につっ立った。
「ふたりを一発でやっつけてくれ」と彼は言った。
 そして、静かにアンジョルラスのほうを向いて、言った。
「いいかい?」
 アンジョルラスは、ほほえみながら彼の手をにぎりしめた。
 このほほえみがおわらないうちに、銃声がとどろいた。
 アンジョルラスは八発の銃弾で撃ちぬかれ、まるでそのたまで釘づけになったみたいに、壁によりかかっていた。ただ、頭をがっくりとたれた。
 グランテールは、雷に撃たれたみたいにアンジョルラスの足もとにたおれた。
「共和国万歳! おれも仲間だぜ」
 グランテールは立ちあがっていた。
 参加しようとしてし損ねた戦闘の途方もない閃光が、変貌した酔漢のきらきらとした目に現れた。
 彼は「共和国万歳!」とくりかえしながら、確固とした足取りで広間を横切り、アンジョルラスのそばに行って兵士たちの銃口のまえにたちはだかり、
「一石二鳥だろ」と言った。
 そしてゆっくりとアンジョルラスのほうに振り向いて、
「いいよな?」
 アンジョルラスは、にっこり微笑しながら彼の手を握った。その微笑も終わらないうちに、銃声がとどろいた。八発の銃弾に撃ちぬかれたアンジョルラスは、まるで弾に釘付けにされたように、壁にもたれかかっていた。ただ頭が垂れさがっているだけだった。グランテールは即死で、アンジョルラスの足元に崩れ落ちた。
豊島与志雄 訳 (岩波文庫)佐藤朔 訳 (新潮文庫)辻昶 訳 (講談社文庫)西永良成 訳 (ちくま文庫)
Cette sincérité de l'immondice nous plaît, et repose l'âme. Quand on a passé son temps à subir sur la terre le spectacle des grands airs que prennent la raison d'état, le serment, la sagesse politique, la justice humaine, les probités professionnelles, les austérités de situation, les robes incorruptibles, cela soulage d'entrer dans un égout et de voir de la fange qui en convient.
 不潔なるもののかかる誠実さは、吾人を喜ばせ吾人の心を休める。国家至上の道理、宣誓、政略、人間の裁判、職務上の清廉、地位の威厳、絶対に清い法服、などが装ういかめしい様子を、地上において絶えず見続けてきた後、下水道にはいってそれらのものにふさわしい汚泥を見るのは、いささか心を慰むるに足ることである。  このような汚物の率直さは、われわれを喜ばせ、心を休ませる。国是、宣誓、政略、人間の正義、職務上の誠実、清廉な法服などが持つ、いかめしい様子を、地上でさんざん見せつけられたあとで、下水道の中に入って、それらのものにふさわしい泥をみると、ほっとする。  こんな汚物の率直さが私たちをよろこばせ、心をなごませてくれる。国是だの、宣誓だの、政治的な分別だの、人間の正義だの、職業上の誠実さだの、地位の威厳だの、純白な法服だの、そういったものが見せるしかつめらしい光景を地上でがまんして見てきたあとで、下水道にはいっていかにも下水道らしいどぶどろを見ると、ほっとした気分になる。  汚物のこんな率直さにひとは喜び、心が安らぐ。国是、宣誓、政治的叡智、人間の正義、職業的な実直さ、顕職の権威、清廉な法服などといったものが身にまとう仰々しい光景をさんざん地上で見せられたあとで下水道のなかにはいり、そこにお誂え向きの泥水を見ると、心の荷が軽くなるのである。
豊島与志雄 訳 (岩波文庫)佐藤朔 訳 (新潮文庫)辻昶 訳 (講談社文庫)西永良成 訳 (ちくま文庫)
Il était forcé de reconnaître que la bonté existait. Ce forçat avait été bon. Et lui-même, chose inouïe, il venait d'être bon. Donc il se dépravait.
Il se trouvait lâche. Il se faisait horreur.
L'idéal pour Javert, ce n'était pas d'être humain, d'être grand, d'être sublime; c'était d'être irréprochable.
Or, il venait de faillir.
 彼は親切というものの世に存在することを認めざるを得なかった。あの囚人は親切であった。そして彼自身も、不思議なことではあるが、先刻親切な行ないをなしてきた。彼は変性したのだった。
 彼は自分が卑怯であるのを認めた。彼は自ら恐ろしくなった。
 ジャヴェルの理想は、人間的たることではなく、偉大たることではなく、崇高たることではなかった。一点の非もないものとなることであった。
 しかるに彼は今や歩を誤っていた。
 彼は親切が存在することをみとめざるをえなかった。あの徒刑囚は親切だった。また彼自身も、かつてなかったことだが、親切だった。してみると、自分は性質が変ったのだ。彼は自分を卑怯だと想った。わが身がおぞましかった。
 ジャヴェールにとって、理想とは、人間的になることでも、偉大になることでも、気高くなることでもなかった。非の打ちどころがなくなることであった。ところが、今はあやまちを犯してしまったのだ。
 善意があるということをどうしてもみとめないわけにはいかなかった。あの徒刑囚には善意があったのだ。そして、これまでにはなかったことだが、彼自身も、いましがた善意をもったのである。
 自分はひきょうだと思った。自分がつくづくいやになった。
 ジャヴェールの考えによれば、理想とは人間らしくなることでも、偉大になることでも、崇高になることでもなかった。非難しようのない人間になることだった。
 ところが彼は、いま、あやまちをおかしてしまった。
 彼はこの世に善意というものが存在することを認めざるをえなかった。あの徒刑囚は善良だった。そして、これまでになかったことだが、彼自身も今しがた善良になったところだ。だからこそ堕落することになった。彼はおのれを卑劣だと思い、そんなじぶんを嫌悪した。
 ジャヴェールにとっての理想とは偉大になることでも、崇高になることでもなく、非の打ちどころがない人間になるということであった。それなのに、彼はたった今しくじってしまったのである。
豊島与志雄 訳 (岩波文庫)佐藤朔 訳 (新潮文庫)辻昶 訳 (講談社文庫)西永良成 訳 (ちくま文庫)
Ce chef nouveau, Dieu, il le sentait inopinément, et en était troublé.
Il était désorienté de cette présence inattendue; il ne savait que faire de ce supérieur-là, lui qui n'ignorait pas que le subordonné est tenu de se courber toujours, qu'il ne doit ni désobéir, ni blâmer, ni discuter, et que, vis-à-vis d'un supérieur qui l'étonne trop, l'inférieur n'a d'autre ressource que sa démission.
Mais comment s'y prendre pour donner sa démission à Dieu?
 この神という新しい主長を彼は意外にも感得して、そのために心が乱された。
 彼はその思いがけないものに当面して困惑した。彼はその上官に対してはどうしていいかわからなかった。今まで彼が知っていたところでは、部下は常に身をかがむべきものであり、背反し誹謗し議論してはいけないものであり、あまりに無茶な上官に対しは辞表を呈するのほかはなかった。
 しかしながら、神に辞表を呈するにはいかにしたらいいであろうか?
 彼は、この神という新しい長官を、思いがけずも感じて、動揺しているのであった。
 この予期しない存在に当惑した。この上官をどう扱ったらいいのか、わからなかった。部下はいつでも腰をかがめているものであり、服従しなかったり、非難したり、反論したりすべきではなく、あまり無法な上官にたいしては辞表を出すより手はない、ということを知らないわけではなかったが。だが、神に辞表を出すには、一体どうしたらいいのか?
 神というこの新しい長官。この長官の存在を思いがけず感じとって、彼の心は混乱した。
 彼はこの思いがけないものの存在に気がついて、方向を見うしなってしまった。この上役をどうあつかえばいいのか見当がつかなかった。もちろん彼は、部下というのはいつでも頭をさげているもので、さからったり非難したり文句を言ったりしてはいけないし、あんまりびっくりするような上役にぶつかったら、目下のものは辞職を願い出るよりほかにしかたがないということは心得ていたのだが。
 だが、神に辞表をだすにはどうすればよいのだろうか?
 彼は図らずも、神という新しい上司の存在を感じとって途方に暮れた。
 思いもかけないものの存在に気づいて途方に暮れた。このような上司をどう扱えばいいのか分からない。部下というものはつねに平身低頭し、上司に逆らうとか、非難するとか、口答えするなどまかりならぬ、ということぐらいは知っていた。目下のものは、あまりにも人を驚かせる上役にたいして、ただ辞表を提出するほか手立てがないことも知っていた。とはいえ、神に辞表を提出するには、いったいどうすればいいのだろうか?
豊島与志雄 訳 (岩波文庫)佐藤朔 訳 (新潮文庫)辻昶 訳 (講談社文庫)西永良成 訳 (ちくま文庫)
—Pour vivre, autrefois, j'ai volé un pain; aujourd'hui, pour vivre, je ne veux pas voler un nom.
—Pour vivre! interrompit Marius. Vous n'avez pas besoin de ce nom pour vivre?
「昔私は生きるために、一片のパンを盗みました。そして今日私は、生きるために一つの名前を盗みたくはありません。」
「生きるため!」とマリユスは言葉をはさんだ。「生きるためにその名前があなたに必要なわけはないでしょう。」
「生きるために、昔、わたしは一片のパンを盗んだ。今日、生きるために一つの名前を盗むことは、やりたくない」
「生きるため!」とマリユスはさえぎった。「生きるために、その名が必要なわけはないでしょう?」
「生きるために、むかしわたしはパンを盗みました。いまは、生きるために名まえを盗みたくはありません」
「生きるためにですって!」とマリユスは口をはさんだ。「生きていくためにその名まえが必要ということはないでしょう?」
「昔わたしは生きるために、パンをひとつ盗みました。今は生きるためにひとつの名前を盗みたくはないのです」
「生きるためですって!」と、マリユスはさえぎって言った。「あなたが生きるために、その名前が必要なわけでもないでしょうに」
豊島与志雄 訳 (岩波文庫)佐藤朔 訳 (新潮文庫)辻昶 訳 (講談社文庫)西永良成 訳 (ちくま文庫)
Je vais donc m'en aller, mes enfants. Aimez-vous bien toujours. Il n'y a guère autre chose que cela dans le monde: s'aimer.
私はもう逝ってしまう。ふたりとも、常によく愛し合いなさい。世の中には、愛し合うということよりほかにはほとんど何もない。 さあ、わたしは行くよ、わが子たちよ。いつまでも本当に愛し合いなさい。この世には、愛し合う以外のことは、ほとんどない。 さあ、わたしはもう行くよ、おまえたち。いつまでも深く愛しあいなさい。この世には『愛しあう』ということのほかには、まずなにもないのだ。 さあ、おまえたち、わたしはもう行くよ。いつまでも深く愛しあいなさい。この世には、『愛しあう』ということのほか、なにもないのだ。
豊島与志雄 訳 (岩波文庫)佐藤朔 訳 (新潮文庫)辻昶 訳 (講談社文庫)西永良成 訳 (ちくま文庫)
Il dort. Quoique le sort fût pour lui bien étrange,
Il vivait. Il mourut quand il n'eut plus son ange,
La chose simplement d'elle-même arriva,
Comme la nuit se fait lorsque le jour s'en va.
彼は眠る。数奇なる運命にも生きし彼、
己が天使を失いし時に死したり。
さあそれもみな自然の数ぞ、
昼去りて夜の来るがごとくに。
彼は眠る、奇しき運命だったが、
彼は生きた、彼は死んだ、天使を失ったときに。
すべては自然にひとりでに起った、
昼が去ると 夜が来るように。
彼は眠る。数奇な運命に操られたが、それに耐えて
彼は生きた。彼は死んだ、その天使を失ったときに。
こうしたことはしぜんに、ひとりでに起こった、
昼が去ると夜がおとずれるように。
彼は眠る。ひどく数奇な運命であったが、
彼は生きていた。彼は死んだ、その天使をなくしたときに。
万事が到来した、ただ成り行きのまま、
昼が去って夜がくるように。